2012年12月25日火曜日

現代の出産方法


全般的にみると一九八九年、病院など施設での出産は、九九・九%に達している。比較的恵まれた施設では、産科医と助産婦、それに数人の産科の看護婦でチームを組んで助産を行なうが、「産科医だけで助産婦さんは一人もいませんでした」という声を実際に聞いたこともある。またお産は昼夜ほとんど同じくらい起こるにもかかわらず、大部分の産科医は、夜は少数の助産婦と看護婦に出産現場をまかせて自宅待機し、出産直前(排臨)の知らせで良心的な医師は出てくるという。比較的恵まれた状況の病院でさえ、この調子であるから、そうではない産科医院などの実情はどうなのだろうかと心配になる。

さて助産婦や看護婦に関する法律は、「保健婦助産婦看護婦法」といい、一九四八年に制定された。しかし、この法律を作製したGHQの女性看護職者たちの本国アメリカでは、産婆に匹敵するような職業は設けられて1 らず、産婆が過小評価されたこと、また当時の日本は、男女の平等意識も低く、女性看護職の地位も医師に比べて格段に低かった時代に定められたこと夭林道子著『助産婦の戦後』勁草書房にくわしい)などにより、現状とは大変ズレている。しかし、定められて以来いまだに抜本的には変わっていない。いまでは高度な知識や実際の技術が要求され、新開発の産科器機を使いこなし、医師の代わりさえつとめねばならない。これでは助産婦や看護婦が超多忙で、人間的な看護を心がけても限度がある。

もちろん以上は大勢であって、全体ではない。なかには常に産科医がしっかりとつき添い、どうすれば、産婦の納得のいく、いいお産ができるかと、日夜努力している所もある。当然ながら、そのような使命感のある産科医は、常に産婦につき添い、細心の注意で見守っているから、産婦がどのようにしたがっているかも察知しやすく、結果として産婦主体のお産になりやすい。しかし残念ながら、それは少数派だ。

現代の出産方法では大勢をしめる病院や産科医院など、施設における出産方法について述べる。それは、おおむね次の四点にしぼられる。山仰臥姿勢で出産。閣産科医の指導する方法が正しい出産方法だと認知されているため、産婦はお産についてあまり知識を持たないで、産科医の指導に従う方がいいお産ができると思われている。閣お産に必要な知識を持っているのは産科医や助産婦だと思われているから、専門知識を持たない産婦の夫や身内などの参加は、無意味で衛生管理上問題が多いとして、分娩室への産婦以外の入室は認めていない場合が多い。

お産において産科医の行なう技術や知識は、一番大切かつ必要なものとみなされている。一方産婦はお産の知識は持たない素人で、産科医が専門的な情報や技術を説明しても理解できないとみなされている。したがって産科医が知識や技術を行使することについては、インフォームドコンセントは行なわなくてよいという主張が一般的だ。これらについて、産婦の側から考えてみたい。

2012年9月4日火曜日

分析家の人間関係

あるとき、文化人類学者の中根千枝さんからこんなことを言われました。「河合さんは忙しい忙しいと言っても、五十分間の間はちゃんと人と会って、それ以外になにからも邪魔されない時間がもてるからいいですね」

考えてみれば、たとえ一日に五十分間にしろ、私たちのように、人間のもっとも深いところで話しあう機会をもっている人はめったにいないでしょう。

普通の人間関係といえば、どうでもいい雑談をするとか、酒を飲みながら他人の噂話をするとか、ほとんどが表面的なつきあいです。

しかし、私たちがクライエントと面接している間は、途中で電話がかかってくることもありません。一人の人間対人間として、通常とはまったく違う世界に入っているわけですから、普通の人の忙しさとはまったく違います。むしろ、世間的な忙しさとは無縁の世界で、しかも、非常に濃密な充実した時間です。

私たちは、一週間に何時間かはそういう世界に入っているわけですし、私たちの場合はそれが職業として成り立っているわけですから、自分でもすごく恵まれた境遇だと思いますし、中根さんに指摘されてからは、ますますこの仕事をしていてよかったと思います。

2012年8月23日木曜日

日本の外交官の「気概」

渡辺訪朝団の帰国後に、北朝鮮はコメ支援交渉を行う代表団を派遣した。しかし、この代表団には国際貿易促進委員会の幹部を団長に、アジア太平洋平和委員会の担当者などが加わっていた。外務省の担当者を団長にする本格的な「政府代表団」ではなかった。国際貿易促進委員会は、一応は政府機関といわれているので、準政府代表団であった。だが、この際も北朝鮮政府の責任者や外相からの公式のコメ支援要請文書は提出されなかった。

この時には、日本政府は合わせて五〇万トンのコメ支援を行ったが、北朝鮮政府からの公式の「感謝文」は届けられなかった。そればかりか、金容淳書記がコメ支援について「日本からの謝罪を込めた献上品である」と発言し、これが韓国誌で報じられ日本の世論が硬化した。

しかし、「四党基本合意書」にもかかわらず日朝正常化交渉は再開にこぎつけなかった。この背景には、橋本政権の発足がある。橋本龍太郎首相は、国会対策的な北朝鮮への取り組みを嫌い、自民党に自制を促した。日朝問題は、政府を中心に行うという方針を打ち出した。この方針は正しかったが、北朝鮮側の体制が整わなかった。統一戦線部と北朝鮮外務省の主導権争いが展開されていたからである。この争いに巻き込まれたとは知らずに、日本の外務省は統一戦線部の担当者との実務接触を密かに続けたのだった。これが、日朝の外交ルートでの問題の解決を遅らせた大きな原因の一つになった。

日本の外務省の担当者が、統一戦線部傘下のアジア太平洋平和委員会の担当者と接触し外交的な合意をすれば、統一戦線部は「日本の外務省は、統一戦線部との接触と交渉を望んでおり、北朝鮮の外務省は相手にしていない」と主張できる。この結果、北朝鮮の外務省は対日外交の主導権を握る機会を失うのである。この平壌内部のメカニズムを、日本側は理解できなかった。北朝鮮内部で金正日総書記に近い実力者を求めすぎた結果、統一戦線部に「編された」のである。

渡辺訪朝団の派遣後に、韓国は日朝正常化交渉も南北対話の再開に合わせて行うように求めるなど、日朝正常化交渉の再開にブレーキをかけた。また、一九九六年九月には韓国で北朝鮮の潜水艦が座礁し、北朝鮮の工作員と韓国軍の銃撃戦に発展した。この時期に。日朝関係には新たな問題が発生した。日本人拉致疑惑問題である。新潟県で行方不明になった中学生の横田めぐみさんが、北朝鮮の工作員に拉致された疑いが強くなったのである。「拉致疑惑」の解明が新たな問題として登場した。

2012年7月17日火曜日

心理療法家の他の専門職と異なる側面

心理療法家の他の専門職と異なる側面としては、人間の関係性ということが重要であること、治療の過程に創造的、発見的な要素が必要であることがあげられます。つまり、専門家が素人の知らない知識や技術を身につけて、それを適用することによって問題を解決していくというより、むしろ、心理療法家とクライエントの間に成立する関係によって、クライエントの潜在的可能性がはたらきはじめ、それによって両者の関係も深まり、可能性がかたちをとってあらわれやすくなってくるというものです。

その可能性が一挙に出現してくるときは、否定的なかたちをとることが多いので、危険性が非常に高くなります。たとえば自殺というかたちをとるかもしれないし、両親からの自立のはたらきが親殺しとなってあらわれることもあります。

ですから、このような過程をともにすることはきわめて困難です。このような困難な仕事をやり抜くためには、やはりどうしても訓練された専門家であることが必要になります。

心理療法家の仕事は危険に満ちた、大量のエネルギーを必要とする仕事で、簡単にできるものではありません。心理療法家の基本姿勢というのは、1 い訓練によって身につくものであり、改善されていくものです。

多くの人がなんとなく他人の役に立ちたいと思っているし、自分のおかげで他人がよくなったなどと思いたいものですから、他人の相談にのったり、指導をしてあげたりしたいと思う気持ちはよくわかりますが、それは趣味の範囲内であり、職業としての心理療法とは異なるものです。

また、心理療法家はつねに常識を超えた判断や考えを必要とされるだけに、常識にとらわれている人では心理療法家にはなれませんが、一般常識をよく知っていなければ、それを乗り越えることはできません。要するに、心理療法家にとっては、毎日の日常生活が訓練の場だということです。

2012年6月20日水曜日

最後はつじつまが合う

この仕事は、一生懸命やっていれば、必ず自分の資質を疑うときもありますが、つねに努力し、ずっと続けて、体験を積んでいくことがかんじんです。経験の少ない人ほど、自分のうまくできた話ばかりをするようになります。それは嘘ではないけれども、実情とは異なります。

考えてみると、これは不思議な職業だと思います。いくら忙しくても、ほかの職業のように、簡単にアシスタントを使うこともできません。自分でクライエントと時間を共有する以外にはないし、中根さんが指摘されたような時間をもてるのは、自分しかありません。

自分でしかできないとなると、クライエントと面接の約束をしても、なんらかの事情でどうしても会えなくなることもあります。そういう場合は、相手に正直に話して了承してもらうしかありません。

そのときに、表面を取りつくろって、弁解がましくなったり、嘘をついたりすれば、すぐに相手にわかります。私たちのところに来るような人たちは普通の人よりずっと勘が鋭いですから、嘘は絶対に禁物です。

時間に遅れないことも重要ですが、特例として、時間にルーズな人もいます。私か学んでいたころのユング研究所の所長のフランツーリックリンという人は、時間遅れの常習犯でした。

あるクライエントと一時間の予定で会っていても、話に熱中しだしたら、一時間半だっても、二時間だっても終わらない。そのあとの面接で待っている人がいても、まったく気にしない。

リック所長があまりいつも遅れるので、クライエントが遅れていったら、向こうはちゃんと定刻に待っていたということもあります。

じわじわ変わる、じわじわ治る

私のいまの面接の基本は、あまり世俗的なことにとらわれないということです。通常は、学校へ行ってない子どもなら、行ったほうがいいとか、金が儲からないより儲かるほうがいいとか、みんなそう考えています。それを忘れてはいませんが、私はそういうところを超えたところでクライエントと会っています。

三浦さんの質問には、「先生が現在のような面接がおできになるようになっだのは、いつごろ
からですか」とのI項がありますが、私がいまのようなかたちで面接できるようになったのは、やはり五十代後半になってからでしょうか。

私も若いころは、苦しんでいる人を、なんとかしてよくしたい、通常の社会生活が送れるようになってほしいと思って会っていました。自分の子どもが不登校になったら、親はなんとかして学校へ行ってもらおうと思うでしょう。

しかし、周囲のそういう気持ちが強ければ強いほど、子どもはよけいに悪くなるんだということがだんだんとわかってきたのです。

クライエントが治っていくのは、やはりじわじわとです。心理療法家の中には、なにか具体的なきっかけがあって、それこそ}夜にして変化したというような話し方をする人がいますが、それは話をわかりやすくするためで、実際のところは、そういうブレークスルー的なことはほとんどありません。

私が分析を受けた体験でも、こんなものがなんの役に立ってるのかなと思うくらいです。しかし、あとから考えると、じわじわと変わってきているのがわかります。

その意味では、心理療法は必殺のノックアウトパンチではなく、ボディブロウのようなものと言えるでしょう。

こういう職業を選んだ以上、最初は早く治ってほしいと思うのは当然です。ところが、やっているうちに、そんなことではなんの効果もないとわかります。こちらがいくらそう思ったからといって、相手がそれに呼応するわけではありません。

一回だけなら。そういうことで成功することもあります。初心者だから成功するというビギナーズーラックの例もあります。ところが、一回の成功で慢心してしまって、なんでもそのようにいくと思いこんでしまうのは、じつにこわいことです。それこそ、一人の人間の人生を台なしにしてしまう危険性もあります。

成功と言っても、しょせんは世俗的な意味での成功であって、それがその人にとってほんとうに幸せか、その人の生きがいに通じるかというのは、また別の問題だと思います。逆に、世間的に見たら失敗に思われるようなことになっても、それで心理療法家としての自分を否定する必要はありません。

「十三年目の手紙」

三浦さんはまた、「この仕事を続けてきてほんとうによかったと感じるのは、どんなときですか」との質問も寄せていますが、自分の心理療法家としての資質を疑うことがある反面、続けていてよかったと感じることも、もちろんあります。すごくむずかしい症状の人がよくなっていくのは、非常にうれしいことです。

なにしろ、私たちはすごく苦労している人たちと会っています。そういう人がやがて結婚し、子どもができたとか、その後のことを知らせてくれます。そういうときは、ああ、頑張っているな、よかったなと思います。

しかし、これもプロ野球の選手と同じではないかと思います。プロ野球の選手というのは、劇的な逆転ホームランを打っても忘れている人かおりあい多い。往年の巨人軍の名選手、与那嶺要さんは、現役をやめるとき、選手時代の忘れられない思い出として、こんなことを言っていました。

「ほとんどは覚えてないけど、はじめてドラッグバントをして成功したときのことだけは忘れません」私も劇的な事例にはたくさん出会っていますが、そういうのはほとんど忘れています。

ただ、与那嶺さんのドラッグバントに匹敵するような話では、たとえば、ほかでも書いた事例ですが、「十三年目の手紙」というのがあります。

それは、ずいぶん昔のことですが、小学校四年で拒食症になった女の子のケースです。小学校四年生くらいで拒食症になるというのは、すごい重症です。いまでこそそういう子どもがだいぶ増えてきましたが、昔はそういうことはめったにありませんでした。

その子は親に連れてこられたのですが、会ってみたところ、非常にむずかしそうでした。それで「また来るかい?」と聞いたら、「もう来ない」と言う。残念ですが仕方かおりません。

一回、話を聴いただけで、私もこの子はもう来ないだろうと思っだので、帰ったあと、彼女に「来なくてもいいけど、気が向いたら、いつでもいいから手紙くらいください。必ず返事を出します」というような内容の手紙を書きました。

それからは親と面接をしていくうちに、本人もしだいによくなって、数年で完全に治りました。そして、もう関係なくなって忘れていたんですが、それから十三年後に、突然、彼女から手紙が来たんです。

「先生は覚えておられますか。先生はいつでも手紙を出していいと言っておられたから、ふっと思いつきましたので」とあって、最後のほうにこう書いてあったのです。

「先生からいただいた手紙は、いまもずっともっています。それは、私を支える宝でした」私は、出しても返事が来ないからそれっきり忘れていましたが、そういうかたちでその子を支えていたとわかったときは、この仕事をやっていてほんとうによかったと思いました。

外国の心理療法家はみんな多忙です。

アメリカ留学中には、前述のようにクロッパー先生が大変に目をかけてくださって、大学の講義が終わったあと、たとえば病院へのスーパーバイズ(臨床の実際例について、指導をすること)など、いろいろなところに連れていってもらいました。

そのときに先生の車に同乗させてもらうわけですが、いつも仕事がびっしりで、ちょっとそのへんのスタンドで買ってきたサンドイッチなどで昼食をすませて、次の仕事、次の仕事と、精力的にこなしていきます。

そこで、私が「先生はほんとうにお忙しいんですね」と言ったら、こんな返事でした。「私はアナリストです」そのときに、ああ、分析家というのはこういうものなのかと、つくづく思いました。

そのへんでぼやっとしている時間など、まったくないのです。これはなにもクロッパー先生だけが特別ではなく、外国の心理療法家はみんな多忙です。

ただ、外国人の場合は、休みをとるときには、きっちりととります。私たち日本人には、これがなかなかできません。欧米人はそこが違います。

私など、土日もなく仕事をしていますが、彼らは土日には必ず休みますし、夏休みは1ヵ月間、きっちりとります。日本では、「来月一ヵ月間は夏休みをとりますから」などと言っても、通りません。

そういうことが、なにか罪悪であるかのように受けとられる傾向があるし、実際、ものごとが動かなくなります。ただ、外国へ行くことは許容してくれるので、外国へ行っているときというのは、私には非常に大事な時間になります。

心理療法家の基本姿勢

心理療法家の基本姿勢は、クライエントの実現傾向を尊重していくということですが、自分が資格をもった専門家であるということを過大に意識しすぎると、基本姿勢が崩れ、他人に対して自分の信じる理論を適用して、判定したり、コントロールしたりしたくなってきます。しかも、それは治療者にとっては非常に楽な方法なので、ついおちいりがちな弊害です。

自分は専門家だから、クライエントよりも上にいるのだと感じると、もっとも大切な関係性が破壊されてしまいます。このことのみを意識すると、「クライエントと対等の関係になるべきなので、専門家であってはならない」という主張も出てくるわけですが、それは、「専門家」の意味を狭くとらえすぎています。

未知の世界にともに進んでいくという点では、私だちとクライエントとは対等ですが、それにある程度役立つ知識や技法をもっている点においては、同等ではありません。この「ある程度」というところに、心理療法家の専門性の微妙なニュアンスが存在しているのです。そして、このようなことを細部にいたるまで、身についた知識としてもっていることが要求されるのです。

深層心理学の知識を身につけると、他人の心がわかったような気になり、また、わかったように言ったりしている人がいますが、そういう人は、私の考えている専門家ではありません。

現象の外側に立って観察したり操作したりするのではなく、現象の中に自らも入りこみながら、しかも自分の足場を失ってしまうことがない専門家が望まれるのです。

深層心理学で他人の心がわかるか

一九六五年に私がユング派の分析家の資格を得て帰国、心理療法の実際に取り組むことになると同時に、日本で臨床心理学を学ぼうとする人たちの指導をすることになりましたが、そのころもちろん、この両者の主張には、それぞれに根拠があって、たとえば専門家はいらないと主張する人たちは、「専門家」という権威を後ろ楯にして、弱者としてのクライエントを食いものにしたり、不必要に統制したりすることに反発していたわけです。

そのような中で、当時の私が考えていたのは、資格とか専門家とか、制度上の議論を闘わす前に、日本の臨床心理士がそれにふさわしい能力を身につけることが先決だということでした。

実際、心理療法など役に立だないと主張する人たちの中には、それを行うための基本的訓練も受けず、ちょっと真似ごとのようなことをしただけで、その経験をもとに発言している人が多かったのです。

クライエントとともに歩むとか、クライエントの可能性が大切だから、こちらの能力などどうでもいいと単純に考え、それを行おうとしても、素人の熱意や善意だけではどうしようもないし、危険さえともないます。心理療法の訓練を受けていない人が心理療法的なことをはじめて、クライエントをますます悪い状況に追いこんでしまうという例もけっして少なくありません。

そのようなことを考えると、心理療法家としての資格を設定することは、クライエントの利益を守るためにも必要だと思われます。ただし、これは医者や弁護士などの他の専門職の資格とは少し異なるという自覚が必要です。

心理療法家は専門的な教育と訓練を必要とする

心理療法家は専門的な教育と訓練を必要とする点においては明らかに専門職であり、誰でもできるというものではありません。しかし、ほかの専門職と異なり、自分のもつ知識や技術だけではなく、相手の可能性をはぐくみ、それによって勝負するというところがあります。

そして、相手の個性を尊重すれば、必然的に一回一回が新しい発見の場となります。その意味で、多くの専門職の中でも、心理療法家ほど謙虚さを必要とし、「初心忘るべからず」の言葉が生きている世界はないと思っています。

ただ、この点をあまり強調しすぎるのもどうかと思います。ときに心理療法家や臨床心理士などという資格は無用、ないしは有害と主張する人がいます。

つねに初心を忘れず、クライエントとともに歩むことが大切で、資格などを設定することによって、むしろ基本姿勢には妨害的にはたらく「専門知識」などをつめこまれて、慢心を起こし、クライエントにレッテルを貼ることだけに熱心になるので、資格などないほうがいいというわけです。これは、たしかに重要な指摘ですが、この考え方も一面的だと思います。

人間の不可解な部分に向きあう

心理療法家の資質、あるいは素質について、よく尋ねられますが、正直なところ、私にもはっきりしたことは言えません。資質や素質を云々する前に、ともかく本人が「なりたい」と思うことがはじまりで、「本人の意志がある限り、挑戦してみてください」と言うよりはかないでしょう。

ただひとこと言えるのは、「自分はなりたい」というより、「自分こそ適任だ」と思うような人は、あまり心理療法家には向かないということです。いかに豊富な人生経験をもっている人も、それによって悩んでいる人を助けてあげられるのは、きわめて限定された、あるいは表面的な範囲内にすぎません。

心理療法家にとってなにより大切なのは、クライエントの考えや感情であって、クライエントの個性を生かすことです。したがって、自分の人生経験を生かしたいと意気ごむことは、心理療法家に必要な根本姿勢とはまったく逆の姿になります。

また、自分の傷つきやすさを、鋭敏さと誤解して、自分は弱い人の気持ちがよくわかるので、そのような人の役に立ちたいと思うような人も問題です。たしかに、傷のある人は他人の傷の痛みがよくわかりますが、そのようなわかり方は治癒にはつながりません。傷をもっていたが癒された人、傷はもっていないが傷ついた人の共感に努力する人、などによってこそ、心理療法は成り立つのです。

もちろん完全な心理療法家などはいませんから、心理療法をしていても、自分の資質を疑い、迷い、悩み、ときには自分はやめたほうがいいのではないかと思ったりするのも当然で、前述のように、こうしたことを通じて心理療法家は成長していくのです。

自分の心理療法に疑いや迷いがまったくないという人がいたら、私はその人にこそ強い疑いの念を抱きます。人間の不可解な部分を対象としている限り、心理療法というのは、自分の知識や技術を適用して必ず成功するという仕事ではないからです。

2012年5月11日金曜日

アフリカ大陸の周期的な干ばつ被害

地球儀を回転させながら、このベルトをなぞってみる。その最大のものは、アフリカ大陸のサハラ砂漠の南側に連なる「サヘル地方」であろう。西アフリカ沖の大西洋に浮かぶ島国のカボベルデから、モーリタニア、セネガル、マリ、ニジェール、チャドを通って、スーダンに至る乾燥地帯である。そして、東アフリカのエチオピア、ソマリア、ケニア、タンザエアにかけての「東アフリカ高地」へとつながっていく。

アジア大陸に目を転じると、パキスタンからインド北西部を通過してバングラデシュに到る一帯。さらに、インド北部からネパールのヒマラヤ山麓へと続く。東南アジアでは、タイ北東部からマレーシア、インドネシアのボルネオ島、フィリピンへと弧状に伸びる。中南米では、メキシコから中米を通り、カリブ海を経てコロンビア、ペルー、ボリビアなどのアンデス山脈の一帯である。いずれも、慢性的な貧困ベルトであり、飢餓地帯であり、そして災害の多発に悩まされるI帯である。このベルトをよく調べると、四つに大別することができる。
  1. 乾燥地帯・・・サヘル地方がその典型だが、インド北西部のタール砂漠周辺、アンデス地方の太平洋岸も乾燥地帯である。
  2. 高地の山麓地帯・・・エチオピアに代表される「東アフリカ高地」、それにヒマラヤ山麓、アンデス山中が該当する。
  3. 熱帯林地帯・・・西アフリカのギュア湾沿い、東南アジア、アンデス山脈東側のアマゾン、カリブ海一帯など。
  4. 沿岸の湿地帯・・・西アフリカ、バングラデシュ、タイヤマレーシアなどの東南アジア、カリブ海などの海岸ぎわのマングローブ林に代表される熱帯の海岸地帯。
乾燥地帯で起きているのは、砂漠化や土壌の侵食であり、干ばつの頻発である。高地では地滑りや洪水、熱帯林では土壌侵食や気候の乾燥化、そして沿岸湿地帯では海岸線の侵食、内陸部の塩害などだ。その詳細は、検証するが、ここではサヘル地方で何が進行しているのかを見てみたい。

今世紀に入って、アフリカ大陸はほぼ10年に一度の割で、干ばつに襲われてきた。その中で、初めて国際社会の関心を集めたのは、1968年~73年の干ばつであった。サハラ砂漠の南側に連なる乾燥地帯で、2500万人が被災、10万~20万人と推定される餓死者を出した。同時期、エチオピアでも20万を超える人が飢え死にしていた。そして、1982~85年の最近の干ばつは、3500万人が餓死線上をさ迷い、300万人以上が死んだと推定されるほど悲惨なものになった。いずれも、サヘル地方からエチオピアにかけて被害が集中した。

この飢餓の模様は、情報化社会の真っただ中で起こり、テレビや新聞によって世界中に報道されたこともあって、大きな関心を集め、多くの国際機関や研究者によって、干ばつの原因やこれだけ被害の広がった理由が模索されてきた。以前までは、異常気象による雨不足が深刻な干ばつを招いたとされてきた。だが、過去に周期的に干ばつが襲ってきているのにも関わらず、最近の千ばつほどの被害はなかった。そのため変わってきたのは、気象だけではなく、干ばつを受け止めてきた自然や人間の側ではないか、とする議論が活発になってきた。

生態系の崩壊ベルト

1960年代から70年代にかけて、世界的に環境保護運動が広がっていったときに、こんな暗い終末論が繰り返し語られた。「人口と消費の爆発的増加で資源は枯渇し、自然は荒廃して人間も生きていけなくなる」。だがそれは、「いつか起きるに違いない」未来の話であった。そして、こんな危機感も、いつの間にかすっかり薄らいだものになってしまっていた。

しかし、人口の増加も資源の浪費も自然の荒廃も、収まったどころか、ますます規模が大きくなり、速度を上げている。各地を回っていると、大袈裟と思えたあの終末論が、地球のあちこちで現実のものになっているのを肌で感じる。自然の荒廃が極みに達して、人間の生存を拒否し始めている地帯が次第に拡大しているのだ。

仮に、そのような地帯を「生態系の崩壊ベルト」と呼ぶなら、このベルト上のどこを歩いても、森林の破壊、砂漠化、水や薪の枯渇、災害の激増に苦しめられ、最終的には飢餓や災害によっていのちを失うか、もしくは住みなれた村を逃げ出して流浪の生活に身を落としてしまう地元民の姿を見ることができる。ただ、発展途上国の辺地で日常的に起きている飢餓や災害は、よほど大きな被害にならない限り、私たちの目や耳に届くことはまずない。このベルトで何か起きているのか。