2012年6月20日水曜日

最後はつじつまが合う

この仕事は、一生懸命やっていれば、必ず自分の資質を疑うときもありますが、つねに努力し、ずっと続けて、体験を積んでいくことがかんじんです。経験の少ない人ほど、自分のうまくできた話ばかりをするようになります。それは嘘ではないけれども、実情とは異なります。

考えてみると、これは不思議な職業だと思います。いくら忙しくても、ほかの職業のように、簡単にアシスタントを使うこともできません。自分でクライエントと時間を共有する以外にはないし、中根さんが指摘されたような時間をもてるのは、自分しかありません。

自分でしかできないとなると、クライエントと面接の約束をしても、なんらかの事情でどうしても会えなくなることもあります。そういう場合は、相手に正直に話して了承してもらうしかありません。

そのときに、表面を取りつくろって、弁解がましくなったり、嘘をついたりすれば、すぐに相手にわかります。私たちのところに来るような人たちは普通の人よりずっと勘が鋭いですから、嘘は絶対に禁物です。

時間に遅れないことも重要ですが、特例として、時間にルーズな人もいます。私か学んでいたころのユング研究所の所長のフランツーリックリンという人は、時間遅れの常習犯でした。

あるクライエントと一時間の予定で会っていても、話に熱中しだしたら、一時間半だっても、二時間だっても終わらない。そのあとの面接で待っている人がいても、まったく気にしない。

リック所長があまりいつも遅れるので、クライエントが遅れていったら、向こうはちゃんと定刻に待っていたということもあります。

じわじわ変わる、じわじわ治る

私のいまの面接の基本は、あまり世俗的なことにとらわれないということです。通常は、学校へ行ってない子どもなら、行ったほうがいいとか、金が儲からないより儲かるほうがいいとか、みんなそう考えています。それを忘れてはいませんが、私はそういうところを超えたところでクライエントと会っています。

三浦さんの質問には、「先生が現在のような面接がおできになるようになっだのは、いつごろ
からですか」とのI項がありますが、私がいまのようなかたちで面接できるようになったのは、やはり五十代後半になってからでしょうか。

私も若いころは、苦しんでいる人を、なんとかしてよくしたい、通常の社会生活が送れるようになってほしいと思って会っていました。自分の子どもが不登校になったら、親はなんとかして学校へ行ってもらおうと思うでしょう。

しかし、周囲のそういう気持ちが強ければ強いほど、子どもはよけいに悪くなるんだということがだんだんとわかってきたのです。

クライエントが治っていくのは、やはりじわじわとです。心理療法家の中には、なにか具体的なきっかけがあって、それこそ}夜にして変化したというような話し方をする人がいますが、それは話をわかりやすくするためで、実際のところは、そういうブレークスルー的なことはほとんどありません。

私が分析を受けた体験でも、こんなものがなんの役に立ってるのかなと思うくらいです。しかし、あとから考えると、じわじわと変わってきているのがわかります。

その意味では、心理療法は必殺のノックアウトパンチではなく、ボディブロウのようなものと言えるでしょう。

こういう職業を選んだ以上、最初は早く治ってほしいと思うのは当然です。ところが、やっているうちに、そんなことではなんの効果もないとわかります。こちらがいくらそう思ったからといって、相手がそれに呼応するわけではありません。

一回だけなら。そういうことで成功することもあります。初心者だから成功するというビギナーズーラックの例もあります。ところが、一回の成功で慢心してしまって、なんでもそのようにいくと思いこんでしまうのは、じつにこわいことです。それこそ、一人の人間の人生を台なしにしてしまう危険性もあります。

成功と言っても、しょせんは世俗的な意味での成功であって、それがその人にとってほんとうに幸せか、その人の生きがいに通じるかというのは、また別の問題だと思います。逆に、世間的に見たら失敗に思われるようなことになっても、それで心理療法家としての自分を否定する必要はありません。

「十三年目の手紙」

三浦さんはまた、「この仕事を続けてきてほんとうによかったと感じるのは、どんなときですか」との質問も寄せていますが、自分の心理療法家としての資質を疑うことがある反面、続けていてよかったと感じることも、もちろんあります。すごくむずかしい症状の人がよくなっていくのは、非常にうれしいことです。

なにしろ、私たちはすごく苦労している人たちと会っています。そういう人がやがて結婚し、子どもができたとか、その後のことを知らせてくれます。そういうときは、ああ、頑張っているな、よかったなと思います。

しかし、これもプロ野球の選手と同じではないかと思います。プロ野球の選手というのは、劇的な逆転ホームランを打っても忘れている人かおりあい多い。往年の巨人軍の名選手、与那嶺要さんは、現役をやめるとき、選手時代の忘れられない思い出として、こんなことを言っていました。

「ほとんどは覚えてないけど、はじめてドラッグバントをして成功したときのことだけは忘れません」私も劇的な事例にはたくさん出会っていますが、そういうのはほとんど忘れています。

ただ、与那嶺さんのドラッグバントに匹敵するような話では、たとえば、ほかでも書いた事例ですが、「十三年目の手紙」というのがあります。

それは、ずいぶん昔のことですが、小学校四年で拒食症になった女の子のケースです。小学校四年生くらいで拒食症になるというのは、すごい重症です。いまでこそそういう子どもがだいぶ増えてきましたが、昔はそういうことはめったにありませんでした。

その子は親に連れてこられたのですが、会ってみたところ、非常にむずかしそうでした。それで「また来るかい?」と聞いたら、「もう来ない」と言う。残念ですが仕方かおりません。

一回、話を聴いただけで、私もこの子はもう来ないだろうと思っだので、帰ったあと、彼女に「来なくてもいいけど、気が向いたら、いつでもいいから手紙くらいください。必ず返事を出します」というような内容の手紙を書きました。

それからは親と面接をしていくうちに、本人もしだいによくなって、数年で完全に治りました。そして、もう関係なくなって忘れていたんですが、それから十三年後に、突然、彼女から手紙が来たんです。

「先生は覚えておられますか。先生はいつでも手紙を出していいと言っておられたから、ふっと思いつきましたので」とあって、最後のほうにこう書いてあったのです。

「先生からいただいた手紙は、いまもずっともっています。それは、私を支える宝でした」私は、出しても返事が来ないからそれっきり忘れていましたが、そういうかたちでその子を支えていたとわかったときは、この仕事をやっていてほんとうによかったと思いました。

外国の心理療法家はみんな多忙です。

アメリカ留学中には、前述のようにクロッパー先生が大変に目をかけてくださって、大学の講義が終わったあと、たとえば病院へのスーパーバイズ(臨床の実際例について、指導をすること)など、いろいろなところに連れていってもらいました。

そのときに先生の車に同乗させてもらうわけですが、いつも仕事がびっしりで、ちょっとそのへんのスタンドで買ってきたサンドイッチなどで昼食をすませて、次の仕事、次の仕事と、精力的にこなしていきます。

そこで、私が「先生はほんとうにお忙しいんですね」と言ったら、こんな返事でした。「私はアナリストです」そのときに、ああ、分析家というのはこういうものなのかと、つくづく思いました。

そのへんでぼやっとしている時間など、まったくないのです。これはなにもクロッパー先生だけが特別ではなく、外国の心理療法家はみんな多忙です。

ただ、外国人の場合は、休みをとるときには、きっちりととります。私たち日本人には、これがなかなかできません。欧米人はそこが違います。

私など、土日もなく仕事をしていますが、彼らは土日には必ず休みますし、夏休みは1ヵ月間、きっちりとります。日本では、「来月一ヵ月間は夏休みをとりますから」などと言っても、通りません。

そういうことが、なにか罪悪であるかのように受けとられる傾向があるし、実際、ものごとが動かなくなります。ただ、外国へ行くことは許容してくれるので、外国へ行っているときというのは、私には非常に大事な時間になります。

心理療法家の基本姿勢

心理療法家の基本姿勢は、クライエントの実現傾向を尊重していくということですが、自分が資格をもった専門家であるということを過大に意識しすぎると、基本姿勢が崩れ、他人に対して自分の信じる理論を適用して、判定したり、コントロールしたりしたくなってきます。しかも、それは治療者にとっては非常に楽な方法なので、ついおちいりがちな弊害です。

自分は専門家だから、クライエントよりも上にいるのだと感じると、もっとも大切な関係性が破壊されてしまいます。このことのみを意識すると、「クライエントと対等の関係になるべきなので、専門家であってはならない」という主張も出てくるわけですが、それは、「専門家」の意味を狭くとらえすぎています。

未知の世界にともに進んでいくという点では、私だちとクライエントとは対等ですが、それにある程度役立つ知識や技法をもっている点においては、同等ではありません。この「ある程度」というところに、心理療法家の専門性の微妙なニュアンスが存在しているのです。そして、このようなことを細部にいたるまで、身についた知識としてもっていることが要求されるのです。

深層心理学の知識を身につけると、他人の心がわかったような気になり、また、わかったように言ったりしている人がいますが、そういう人は、私の考えている専門家ではありません。

現象の外側に立って観察したり操作したりするのではなく、現象の中に自らも入りこみながら、しかも自分の足場を失ってしまうことがない専門家が望まれるのです。

深層心理学で他人の心がわかるか

一九六五年に私がユング派の分析家の資格を得て帰国、心理療法の実際に取り組むことになると同時に、日本で臨床心理学を学ぼうとする人たちの指導をすることになりましたが、そのころもちろん、この両者の主張には、それぞれに根拠があって、たとえば専門家はいらないと主張する人たちは、「専門家」という権威を後ろ楯にして、弱者としてのクライエントを食いものにしたり、不必要に統制したりすることに反発していたわけです。

そのような中で、当時の私が考えていたのは、資格とか専門家とか、制度上の議論を闘わす前に、日本の臨床心理士がそれにふさわしい能力を身につけることが先決だということでした。

実際、心理療法など役に立だないと主張する人たちの中には、それを行うための基本的訓練も受けず、ちょっと真似ごとのようなことをしただけで、その経験をもとに発言している人が多かったのです。

クライエントとともに歩むとか、クライエントの可能性が大切だから、こちらの能力などどうでもいいと単純に考え、それを行おうとしても、素人の熱意や善意だけではどうしようもないし、危険さえともないます。心理療法の訓練を受けていない人が心理療法的なことをはじめて、クライエントをますます悪い状況に追いこんでしまうという例もけっして少なくありません。

そのようなことを考えると、心理療法家としての資格を設定することは、クライエントの利益を守るためにも必要だと思われます。ただし、これは医者や弁護士などの他の専門職の資格とは少し異なるという自覚が必要です。

心理療法家は専門的な教育と訓練を必要とする

心理療法家は専門的な教育と訓練を必要とする点においては明らかに専門職であり、誰でもできるというものではありません。しかし、ほかの専門職と異なり、自分のもつ知識や技術だけではなく、相手の可能性をはぐくみ、それによって勝負するというところがあります。

そして、相手の個性を尊重すれば、必然的に一回一回が新しい発見の場となります。その意味で、多くの専門職の中でも、心理療法家ほど謙虚さを必要とし、「初心忘るべからず」の言葉が生きている世界はないと思っています。

ただ、この点をあまり強調しすぎるのもどうかと思います。ときに心理療法家や臨床心理士などという資格は無用、ないしは有害と主張する人がいます。

つねに初心を忘れず、クライエントとともに歩むことが大切で、資格などを設定することによって、むしろ基本姿勢には妨害的にはたらく「専門知識」などをつめこまれて、慢心を起こし、クライエントにレッテルを貼ることだけに熱心になるので、資格などないほうがいいというわけです。これは、たしかに重要な指摘ですが、この考え方も一面的だと思います。

人間の不可解な部分に向きあう

心理療法家の資質、あるいは素質について、よく尋ねられますが、正直なところ、私にもはっきりしたことは言えません。資質や素質を云々する前に、ともかく本人が「なりたい」と思うことがはじまりで、「本人の意志がある限り、挑戦してみてください」と言うよりはかないでしょう。

ただひとこと言えるのは、「自分はなりたい」というより、「自分こそ適任だ」と思うような人は、あまり心理療法家には向かないということです。いかに豊富な人生経験をもっている人も、それによって悩んでいる人を助けてあげられるのは、きわめて限定された、あるいは表面的な範囲内にすぎません。

心理療法家にとってなにより大切なのは、クライエントの考えや感情であって、クライエントの個性を生かすことです。したがって、自分の人生経験を生かしたいと意気ごむことは、心理療法家に必要な根本姿勢とはまったく逆の姿になります。

また、自分の傷つきやすさを、鋭敏さと誤解して、自分は弱い人の気持ちがよくわかるので、そのような人の役に立ちたいと思うような人も問題です。たしかに、傷のある人は他人の傷の痛みがよくわかりますが、そのようなわかり方は治癒にはつながりません。傷をもっていたが癒された人、傷はもっていないが傷ついた人の共感に努力する人、などによってこそ、心理療法は成り立つのです。

もちろん完全な心理療法家などはいませんから、心理療法をしていても、自分の資質を疑い、迷い、悩み、ときには自分はやめたほうがいいのではないかと思ったりするのも当然で、前述のように、こうしたことを通じて心理療法家は成長していくのです。

自分の心理療法に疑いや迷いがまったくないという人がいたら、私はその人にこそ強い疑いの念を抱きます。人間の不可解な部分を対象としている限り、心理療法というのは、自分の知識や技術を適用して必ず成功するという仕事ではないからです。