2015年7月1日水曜日

アメリカ科学アカデミー紀要

当時、三十一歳だった夫より十歳ほど年長の博士は、心身共に充実した時期だったのですね。「先生は、僕たちが夜明けまで実験していると思っているのかな」と研究室の仲間も笑っていました。「この生活がもっと続いてもいいな」と、私は思い始めていました。日本では大学院生でしたが、ここではフェロー(研究員)として朝九時から夜八時ごろまで枯草菌のDNA合成酵素の研究に取り組み、給料も頂ける。しかも、雑務や人間関係に煩わされることもまったくなく、研究に没頭できるのです。

アメリカにいた方が、展望が開けそうな気がしていました。日本に帰っても、女性には研究者の職なんて考えられない時代でしたから。アメリカの女性研究者たちが、うらやましく思えたものです。夫も留学中に名古屋大が休職扱いになり、在籍していた研究室の指導教授も辞めていました。「帰る場所がなくなってしまったな」と悩んでいた夫に、思いがけず、大学から「生化学教室の助教授にどうか」というお話がありました。日本で好きな研究に取り組むことができるかもしれない。六三年三月、私たちは帰国の途につきました。実験器具の不備などの困難は覚悟の上でした。

七三年春に下の娘が生まれだ直後、夫の岡崎令治が白血病を発病しました。国際的な評価を受けた「DNA不連続複製」の仮説を完全に実証するため、研究室の総力を挙げて取り組んでいる最中でした。夫の白血病がわかったのは、手の皮膚におかしな出血が始まり、検査してもらったからでした。ぼう然としている私に、「余命はあと二年あるかどうかです」と医師が告げました。広島に実家があり、「旧制中学の時に被爆した」とは聞いていました。被爆との因果関係はわかりませんが、夫はあの夏のことを思い出したようでした。

四五年八月六日に原爆が投下された時は学徒動員で郊外にいて命拾いしたのですが、「直後に市内に戻って何日か野宿した」といいます。被爆者手帳も持っていて、五六年に結婚した時には、私の両親も夫の健康を心配していました。発病してからも、夫の研究に対する姿勢は変わりませんでした。目立った症状もなく、七五年に入院するまで、研究を全力で続けました。DNAの不連続複製の仮説は六七年に『アメリカ科学アカデミー紀要』に発表しましたが、未解決の課題が残されていました。DNA短鎖の合成が始まる仕組みがわかっていなかったのです。私たちは、RNAが合成開始にかかわっている可能性を検討しようとしていました。

七五年三月、私たちはカナダで開かれた国際会議に招待され、最後の旅に出ました。カリフォルニアにも足を延ばし、恩師のアーサー・コーンバーグ博士にお別れの挨拶をした後十四年前の留学時代に二人でよくドライブした思い出の道を夫が運転しました。サンフランシスコに通じるひなびた道です。夫の体を気遣うコーンバーグ博士からは、「絶対に運転させないように」と言われていたのですが、夫は運転をやめませんでした。帰国後、夫はすぐ入院して四か月後の八月一日に亡くなりました。四十四歳でした。大学助手の身分だった私は、研究のことや子供のことなどで助言が欲しかったのですが、夫は「好きにしたらいい」としか言ってくれませんでした。