2015年11月2日月曜日

難民問題への戦後の対応

日本の上海占領は、初めのうちはユダヤ人に対してほとんど影響を与えなかった。むしろ、租界の市会側か、難民の集中的流入による財政負担について、国際的な難民救援民間団体であった連合配給委員会(Joint Distribution Committee)に資金提供を求めた。それぽかりでなく、その代表者だもの本国が日本と険悪な状態にありながらもそれぞれ徴妙に、日本との関係の維持を図っていたことを考慮して、ユダヤ人難民がこれ以上多数、上海に行くことをやめさせるようにナチスに要請するのであった。ナチスは、その要請を拒否した。

他方、日本では一九三八年コー月、近衛内閣が五相会議で、「ユダヤ人対策要綱」を決定した。そのなかで、独伊両国との同盟関係に配慮しつつも、戦争遂行上外資導入が必要なこと、対米関係の悪化を避けることを考慮して、ドイツの極端な反ユダヤ政策にはくみせず、「日満支」に来往するユダヤ人を公正に処遇する、と定めた。しかし、山下肇関西大学教授が新聞紙上で指摘しているところによれば、政府の真意は、かつて日露戦争時米国ユダヤ財閥からの借款に成功した高橋是清のひそみにならうことにあった(「上海の亡命ユダヤ人と日本」『朝日新聞』一九八九年二月二三日夕刊)。

ともかくも、ユダヤ人難民に対する公正な処遇といっても、上海地区についてみれば、日本軍の占領地にとりかこまれた上海租界という独特の地域に難民が流れ込むことを阻止しなかったことを意味するにすぎなかった。「日満支」にやってきたユダヤ人に対する処遇原則は、せいぜい、外国人一般に対して適用される外国人入国取締規則をユダヤ人にも適用することであった。そして、ユダヤ人を「積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避」けることとして、これらの地域、とりわけ日本本土に、平ダヤ人を難民としては受け入れないことを意味していた。それにもかかわらず、「資本家、技術家の如き特に利用価値あるものは此限りに非ず」とし、このようなユダヤ人に限っては、外国人取締規則の運用によってその受け入れを認めることにしたのである。

ここには、ユダヤ人に対する恩情をみせておいて、ユダヤ財閥から戦費を得よう、ユダヤ人の高度の技術力を軍事的目的に利用しようという政府の魂胆が、露骨に表わされている。それは、ユダヤ人難民の人権尊重や、人道的見地とはほど遠い姿勢であった。確かに、日本の一外交官が、ポ上フンド脱出を図るユダヤ人に対して、人道的見地から本省の訓令のないままでも査証を発行した、という例もある(この外交官の人道的措置にういては、一九九〇年八月一五日のNHKスペシャル「国境の向こうの歳月・シベリア 未帰還者の手紙」のなかで報道された)。しかし、本省はこの査証を有効と認めなかった。

敗戦後の日本は占領管理下におかれ、出入国管理権も占領軍の下にあった。この時期に、難民が日本の地にやってきたという事例は、知られていない。むしろ、日本が植民地支配をしていた朝鮮や旧満州、軍事占領していた中国の一部地域などでは、敗戦直後の混乱のなかでたくさんの日本人が広義の難民となった。今日なお問題となっている中国残留日本人孤児は、このときに生じたのである。

また、一九五〇年に勃発した朝鮮動乱の際、戦線の移動とともに、たくさんの北朝鮮住民が、韓国軍支配地域に流れ込んだが、これらの戦災難民は、戦線が行きつ戻りつと移動した最中に行なわれた国連の朝鮮復興開発委員会の懸命な保護活動によって韓国の地にとどまった。この状況下、一部の人々が日本にも流れ込んできたが、密入国者として扱われ、日本において難民として保護されることはなかった。