2013年12月25日水曜日

新しいソフトウェア

月末になると請求書がくるわけだ。もっと想像を膨らませば、ホームージュークボックスなどというのも考えられる。六〇年代風のロックンロールーパ上アイー、二人のロマンチックなディナー、テキサスーメキシカン風の野趣あふれるバーベキュー用に、もちろんあなた向きにあつらえて、夕べの音楽をオーダーできるのだ。電気信号にスクランブルをかけて録音はできないようになっており、聴くたびに支払うシステムである。それでは、我々が知っているようなレコード店はどうなるだろうか。そう、彼らはもはや過去のものである。

最後にもう一つ例を挙げてみよう。一〇年か一五年たてば、今我々が見ているようなパソコンは骨董品になってしまう可能性が高い。パソコンというのは結構悩みの種である。ハードディスクが壊れたり、メモリーが足りないという表示がいきなり出たり、新しいソフトウエアや拡張カードの複雑怪奇な設定で悪戦苦闘したり、ハッカーが夜中にいっさいがっさい持っていってしまうことを心配したりと、経験者ならパソコンには欠点もあるということがわかるはずだ。

しかし、もし情報公共サービスなどというものがあったらどうだろうか。電子手帳や携帯電話を持ち歩く代わりに、インフォポート(情報端末)とでもいう、画面と電話接続端子、それからタッチペン、キーボード、あるいばマイクなどの入力手段をフル装備した小さな機器を持ち歩くのだ。インフォポートを使って、ユーザーはAT&Tか、ブリティッシューテレコム、あるいはペルーアトランディックにある、小さな自分のフォルダーに接続する。その小さなフォルダーには自分のすべてのファイルが安全に保存されていて、夜中に泥棒が入ったり、電圧変動が起きたりする危険もない。

新しいソフトウェアが必要になったらいつでもすぐ手に入る。保存容量が足らなくなったら?心配ない。すぐに追加してもらえる。すぐ容量が足りなくなったり壊れたりするパソコンなどではなく、容量はほとんど無限で、ずっと頑丈な情報公共サービスが使えるのだ。この例はいささか夢物語に聞こえるかもしれないが、既存の市場と潜在的な市場の両方について機能面から考えられなければ、未来をつくり出すことはほとんど不可能である。

未来をつくり出す一つの方法は、従来の機能をまったく新しい手段で実現することである。このよい例がヤマハの電子ピアノである。従来のピアノをコンピューター技術の面から見直すことで、一つ一つの音、一つ一つのニュアンスにいたるまで偉大なピアニストの演奏を、自称ルビンシュタインが再現できるようにした。既存の機能に新しい衣装を着せた例としてはほかに、シャープの電子手帳や現金自動支払機がある。

2013年11月5日火曜日

第四代国王とブータン社会

わたしは、キリスト教の持つ崇高な価値に無感動ではないし、ブータンでかれらが教育と医療の分野で大きな貢献をなしていることは高く評価している。しかし、自分の信仰だけしか認めないという排他的普遍主義(これはキリスト教に限らず、他の宗教にもみられる)に内在する偏狭さ、独断性は、やはり不寛容であり、問題があると思う。宗教に関してラテン語に不条理なるが故に信ずという諺があるが、改めて深い叡智と謙虚さ、そして寛容への鍵があるように思える。主にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の一神教三姉妹が信奉される地域で、原理主義的勢力による「宗教戦争」的紛争が絶えない現状を鑑みると、ブータン人の宗教的寛容性は改めて評価されるべきものだと思う。

「国のため、国王のため」わたしにとって、国立図書館顧問として中央政府の諸官庁に出入りし、大臣はじめ多くの官僚・役人と接触することになった一九八〇年代当初、一番気になったのは、政府全体が、しかもアメリカ、イギリスとかの欧米先進国の大学・大学院に留学した、わたしとほぼ同年代の三〇代の若いエリートまでが、異口同音に「国のため」あるいは「国王のため」と、ことあるごとに力説することであった。それは日本人のわたしの耳には、「お国のため」「天皇陛下のため」云々という、わたし自身は唱えたことはないが、あちこちで読み聞きした戦前の日本、それはわたしが受けた戦後民率王義教育では本質的に否定されているものを想起させるもので、何とも時代錯誤な、そして本音ではない建前上の対外的な謳い文句としか聞こえなかった。

いわんや、これだけ高度に技術化・専門化が進んだ時代にあ戸て、わたしより七歳も若く、大学はおろか高校も卒業していない二〇代後半の国王が、国政のすべての分野にわたって先見があるなどということは、とうてい信じられないのに、それを「先見の明かある賢明な君主」と称えるなど、とても本気で言っているとは思えなかった。しかし三年、四年とブータンに生活し、政府のことだけではなく、一般民衆のことも少しずつわかってくるにつけ、わたし自身のブータン国王および王制にたいする最初の印象・判断がけっしてそのまま正しいものではないという認識が徐々に強まった。まず第一に、人口六〇万足らずという小さな国であり、中央政府といってもほんの小所帯であるからであろうが、役人にとってはもちろんのこと、一般国民にとっても、国王は、恐れおおく近寄り難い存在ではなかった。

すべての国民には直訴権が認められており、それはよく行使された。役人でも、何らかの責任職にある者は、重大な事項・決議にさいしては、ほとんどが例外なく国王とさしで討議する機会を持ち、親しみと畏敬を混えてビッグーボス夭親分)と呼び慣わしていた。そして誰もが「国王の前では、いいかげんなことは口にできない」と国王の勉強・精通ぶりを称え、その前に呼ばれるのを恐れると同時に、それを心待ちにしていた。そして、一回でも呼ばれたことがある役人は、それをこの上なく誇りにした。威厳を持った親政者と献身的な忠臣、その間に張り詰めるキリツとした緊張感と、その逆の非常に打ち解けた和やかさ。そこには筆舌に尽くせないチームワークの妙が感じられた。

こんなことは、どこの王制下にもあった、そして今でも他の王制下にもある、一部の側近だけに許された特権なのかもしれない。でも、ひょっとしたら名君だけが作り出せる関係・雰囲気なのかもしれない。他の王制を経験したことがないわたしには、比較の術がなかった。わたしは、第二次世界大戦後の民主主義象徴天皇制の下に生まれ育ち、どちらかといえば天皇に親しみを抱いていたが、如何せん天皇はわたしには縁遠い存在であった。そうしたわたしには、こうして国王に畏敬の念をもって、り献身的に尽くすことができるブータンの同世代の役人が、どこかたまらなく羨ましく思えた。王制下でのかれらの意欲、やりがい、充足感、誇りは、象徴天皇下のわたしにはまったく無縁な、味わいたくても、味わえないものであった。

2013年8月28日水曜日

沖縄に何を求めて人はやってくるのか

最大の比重を占めるのが第三次産業の三兆四五八二兆円である。実に九割を占める。ちなみに、〇四年度の観光収入は約四五〇〇億円だが、サービスや原材料の購入を通じて他産業に波及する効果は約六九〇〇億円で、これに付加価値効果の約三八〇〇億円をあわせると、域内総生産の四割を占める。現実問題として、今後も沖縄が基幹産業と呼べるのは、今のところ観光しかないのだ。『平成一八年度沖縄観光客満足度調査』によれば、旅行前に何を期待したかというと、「沖縄の海の美しさ」九四%、「沖縄らしい風景」が八八%、この二つがダントツで、三位以下を、「食事」五八%、「自然環境の保全状態」四九%、と続く。観光とは、読んで字のごとく「光を観る」ことであり、観光客は沖縄らしい風景を見に来るのである。

観光客の視点から言えば、日常的な生活空間を離れ、非日常的空間に浸りたいがために旅をする。たとえば、沖縄には今帰仁城跡や座喜味城跡など世界遺産に指定された「城」があるが、旅行者はこうした文化遺跡だけを目的に来るわけではない。一部をのぞけばい海岸を散歩したり、ちょっとした店で食事をしたり、沖縄という空気に浸ることで日常から解放されたいと願っているはずだ。古い町並みが遺った妻龍宿や萩、白川、高山などに観光客がやってくるのは、日常から失われてしまった町並みが、ここでは五感で感じ取ることができるからだろう。観光立県の沖縄に必要なのもこれと同じで、本土や海外の人間が失ってしまった非日常的空間ではないだろうか。

何か言いたいかといえば、「おもろまち」のような街を野放図につくり続ければ、それは本土の都市と変わらなくなり、非日常的でも何でもないただのミニ東京にすぎなくなる。それは、沖縄の観光が水泡に帰すときだ。ただ「暖かい」というだけで、わざわざ航空運賃を払ってまで来るだろうか。沖縄の空気を感じさせる景観づくり、あるいは島づくりこそ、沖縄の資産となる。景観づくりに失敗すれば、沖縄は先祖から受け継いできた資源を雲散霧消させる。それが「おもろまち」のような姿になってあらわれはじめたのだ。ゾーニング規制の甘さで沖縄の景観はズタズタになった景観でいえば、恩納村も例外ではない。

那覇から国道五八号線を北上すること一時間あまり、サトウキビ畑が広がる読谷村を抜けると、突然、左手に目が覚めるような東シナ海がせり上がってくる。ここが沖縄を代表するリゾート地・恩納村だ。〇七年度に滞在した宿泊客は二一四万人にのぼるという。亜熱帯気候の碧い海、抜けるように透明な空は、インドネシアのバリ島やフランスのニースといった世界のリゾート地にも匹敵するはずだが、どこを見渡してもバリ島やニースのような光景は目に入らない。似て非なるどころか、比べようもないほど貧相で退屈なのである。恩納村を南北に抜ける幹線の五八号線は、トラックがわが物顔に行き交う。立ち止まって数えると、上下線あわせて一分間に七台。それもほとんどがダンプカーである。観光客の目の前を、ダンプカーが排気ガスを巻き上げながら走るリゾート地は、世界広しといえどもここだけだろう。

さらに五八号線を北上すれば、安っぽい土産物屋や無国籍風のレストラン、それに派手な看板がやたら目に飛び込んでくる。道路沿いを走る無粋な電柱と電線は風景をズタズタにし、高級ホテルも民家も商業施設も渾然一体となっている。乱雑で狼雑で無秩序で、個性がないだけに、さらに安っぽく見える。最大の原因は、ゾーニング規制があいまいだからだ。ゾーニング規制というのは、地域を用途にあわせて分類することで、都市空間を有効に活用することでもある。沖縄県庁の観光を担当する職員に、「ゾーニングができていないから町がゴミゴミしているのではないか」と言ったところ、「いや、県ではきちんと規制をしています」とゾーニング規制の地図を見せてくれた。




2013年7月4日木曜日

生産年齢人口減少によって下ぶれしてしまう個人所得

「最低限の経済成長なくしては、経済社会の安定的な運営は難しい」というのはまったくその通り。ですが「逆はまた真ならず」です。これをひっくり返して、「大なり小なり経済成長さえ達成できていれば、経済社会のいろいろ個別の問題は片付いていく。だからまずは経済成長を目指せ」という主張にしてしまいますと、事実から離れてしまう面が出てくるのです。先はどの生産性の話もそうでした。付加価値額を上げた結果として生産性が上がるのであれば問題はないのですけれども、生産性を上げることが自己目的化してしまうと、人員整理で逆に付加価値額を下げてしまいがちになります。

GDPも同じでして、「生産年齢人口減少によって下ぶれしてしまう個人所得や個人消費、企業業績を何とか支え向上させていこうとする努力の先に、GDPの維持ないし成長がある」のです。「GDPを維持ないし成長させることができれば、いくら生産年齢人口が減少しようとも、個人所得や個人消費、企業業績も良くなる」という逆の流れは、「戦後最長の好景気」の中においては生じませんでした。もちろん抽象的な経済理論の世界では、そういう逆の流れが生じることになっている。それを検証もせずに信じ込んで己のイデオロギーにしてしまいますと、そういう抽象的な理論に反する具体的な事実を受け入れられなくなります。でも生産年齢人口の減少する今世紀日本ではそういう理論に反する現実があることを、疑う余地のない全数調査の数字をお示ししながら、これまで延々とご説明してきたわけです。

では日本経済は何を目標にすべきなのでしょうか。「個人消費が生産年齢人口減少によって下ぶれしてしまい、企業業績が悪化してさらに勤労者の所得が減って個人消費が減るという悪循環を、何とか断ち切ろう」ということです。①生産年齢人口が減るペースを少しでも弱めよう②生産年齢人口に該当する世代の個人所得の総額を維持し増やそう③(生産年齢人口土局齢者による)個人消費の総額を維持し増やそう。この①②③が目標になります。もちろんこれらが実現できれば結果として経済成長率も改善しますので、これら目標は経済成長率に関する日本の国際公約とも矛盾しないものです。ですが、逆が起きるとは限りません。経済成長率を何か別の方法で上げたとしても、①②③は達成できないのです。

事実この間までの「戦後最長の好景気」の下では、輸出の活況で数字上の「経済成長」と個人所得総額の増加(高齢富裕層への金利配当所得の還元)は起きましたが、①の生産年齢人口減少はまったくとまらず、②の生産年齢人口に該当する世代の所得増加は生じず、③の(生産年齢人口土局齢者による)個人消費総額も(高齢富裕層が金融投資に傾斜したためだと推測されますが)実際には増えませんでした。生産年齢人口減少という構造の下では、直接に①②③を図る策が必要なのです。ところが実際には、そういうわずかばかりのブレークダウンもしていない、「まずは経済成長」という総論だけが横行しています。その求めに対し、「とにかく目先の試験の点を取ることが最優先」という習慣の染み付いたお受験エリートが「御意!」とばかりに動きます。

実際問題として前述の①②③はI朝一タにはなかなか実現が難しいわけです。となれば、抽象的な総合指標であるGDPを構成するものの中から、①②③にはほとんど無関係に供給側の操作や財政支出だけでいじれてしまう変数を選んで、とにかく数字上だけでも改善してしまおう、という行動が選ばれがちになるわけです。例えば、売れる売れないにかかわらず工業製品を増産しそれを在庫として抱えれば、これまでにお話しした計算の仕組み上GDPは拡大します。同様に、「景気対策でとにかく公共工事を積み増そう」というような施策が取られれば、とりあえず工事や買い支えの効果で目先の経済成長率が上がります。ですがその結果企業は不良在庫を、政府は将来の納税者の負担する借金を抱えることになり、長期的にはかえって成長を損なってしまうことになります。

現役世代の減少

その中で消費に回す時問をこれ以上増やせるのか。難しいとすれば、時間当たりの消費単価を上げるしかない。それは従来よりも高価なものを消費してもらうことによってしか達成できませんね。どうやったらそういう傾向を作り出せるのでしょうか。そういう傾向を長期的に継続させることは可能なのでしょうか。たとえば高価なヨットを買わせるとしましょう。でもそれに乗るには時問が必要です。高価なステージを見に行くとしましょう。やっぱり時間が必要だ。高価な食材を買って、食べずに貯めるとか捨てていくとかすればいいのでは? そうなんです。「買うだけで使わない」という行動を増やしていかない限り、どこかで消費に使える時間の限界が来てしまうのです。

こういうふうに時問を単位にして考えると、一人当たりの消費水準がすでに高くしかも人口が減っている日本のような国での、一人当たりではなく総額としての経済成長というものがいかに困難か、よくおわかりいただけると思うのです。人開か消費というものに飽きない、まるで買い物中毒やギャンブル中毒のようにカネと時間があればより高い商品やサービスの購人につぎこみ続け、しかも買った後には使わない、という状況を想定しない限り、「消費の対時間生産性」がいつまでも伸び続けるというのは想像できません。

一つの打開戦略は、すでに最初の方でお話ししたように、日本の商品がフランス、イタリア、スイスに対抗できるようなブランドを獲得していくこと、国民自身が、そういうプランド価値の高い商品をなるべく消費することです。これは単価上昇を通じて、確かに「消費の対時間生産性」を上げます。ですがすべての商品がそうなれるというわけではありません。といいますか日本の諸産業の多くは、現実に過当競争の中での値下げ競争にあえいでいます。彼らが値下げすればするほど、逆に「消費の対時間生産性」は下がっていってしまいます。近代経済学もマルクス経済学も、労働と貨幣と生産物(モノやサービス)を基軸に構築されてきた学問です。ですが現代の先進国において絶対的に足りないもの、お金で買うこともできないのは、個人個人が消費活動をするための時間なのです。

最も希少な資源が労働でも貨幣でも生産物でもなく実は消費のための時間である、というこの新たな世界における経済学は、従来のような「等価交換が即時成立することを前提とした無時間モデル」の世界を脱することを求められています。我こそば経済学を究めん、と思っている方。ぜひこの「時間の経済学」を考え直し、そして、国民総時間の減少という制約を日本は乗り越えられるのか、という私の問いに答えを出してください。声高に叫ばれるピントのずれた処方たち。長い旅をして参りましたが、ようやくこれまでのところで、日本経済が直面している人口成熟問題のラフスケッチをお示しすることができました。さてそれでは、その上うな深刻な状況にどのように対処していけばいいのでしょうか。そもそも「人が歳を取る」という物理現象に原因があるわけですから、これは対処が可能な問題なのでしょうか。

ご安心ください。対処は相当程度まで可能です。あきらめて座っているヒマがあったらすぐに自分で実践できることが幾つもあります。ただし、一見もっともらしいけれども論理的に破綻していて、やればやるほど経済を損なう大嘘話も世の中には大量に流れていますから、よくよく注意が必要です。そこでまず、世間でよく耳にするさまざまな議論が本当に有効なのか、「生産性さえ上げれば大丈夫」という通念の誤りはすでにご指摘しましたので、それ以外のものを取り上げて、これまでと同じく先入観を排して、論理的かつ現実的に検討してみたいと思います。 「経済成長こそ解決策」という主張が「対策したフリ」を招く日本経済再生への各種の提言を耳にする中で、「マクロ政策で事態を何とかせよ」と主張するものの中には、「おいおい、本当かいな?」と思うものが何種類かあります。その代表が「とにもかくにも経済成長(=GDPの増加)を達成することが大事だ」という意見です。いや意見といっては失礼かもしれない、政官財学の各界の総意であるかもしれません。

2013年3月30日土曜日

超広角、超望遠で視覚の探検

その中から厳選した一枚を大きく引き伸ばしてアルバムに貼っておけば、上達ぶりも一目瞭然。残りのコマは、捨てる前に白い壁や襖にプロジェクターで映し、応接間個展をやってみたらいかがでしょう。仲間うちの甘い合評会より、家族の歯に衣着せぬ批評のほうが勉強になるかもしれませんよ。最近は一般の人の使用も増えてきて、各地で開かれる写真コンテストでも、年々、ダイレクトプリントによる応募作品が増えてきているとのことです。

超ワイドレンズ、マイクロレンズ、超望遠レンズも、一度は体験しておきたいものです。日常的な遠近感とは異質の、視覚の探検とでもいいましょうか、20ミリ前後の超広角レンズをつけてファインダーをのぞくと、ちょっとしたデフォルメ感覚が味わえ、いままで知らなかった世界が見えてきます。これは、遠近感が極端に誇張されるためです。実際は狭い部屋がとてつもなく広く見えたりするので、新聞写真では誤解を招かないよう、わざわざ「超広角レンズで撮影」と注意書きを入れることもあるほどです。

本でも週刊誌でもけっこうですから、その直角になった角の部分を鼻の上、両目の間に水平にして当ててみてください。この角の内側の九〇度の範囲が、20ミリレンズの画角(九四度)とほぼ同じです。これなら自分の目のほうがよっぽど広く見える、と思うかもしれませんが、それは目玉を動かしているからです。片目をつぶって、九〇度の範囲をよく見回してみてください。九〇度が意外なほど広い範囲をカバーしていることに気づくはずです。

ところで、カメラのレンズは焦点が平面に結ばれなければ役目を果たしません。二四×三六ミリの決められたフィルム面積の中に広い範囲を取り込むわけですから、当然、像は見た目よりも小さく写ります。実際に一眼レフカメラに20ミリレンズをつけてのぞいてみるとよく分かりますが、目の前をIメートル離れると左右ニメートル、ニメートル離れると左右四メートルと、倍々で被写体との距離が広がって写ります。ちなみに、人間の目と比較的遠近感が近いといわれる50ミリの標準レンズの画角は四六度で、20ミリレンズの約半分です。

この特性を活かして、強調したいものを大きく画面に取り込んで迫力を出したり、狭い場所で広い範囲を写したいときに利用します。しかし、実際に肉眼で見る遠近感とはかなり違った画像に仕上がるので、超広角レンズで写真を撮った場合は、はっきりとしたデータを示すことを忘れないようにしたいものです。あるタレントさんと奈良の古いお寺へ行ったときのことです。お堂を囲むようにつくられた庭園の石や老木には幾種類もの苔がつき、五百年の時を経た重厚な雰囲気をかもし出していました。

回廊式の縁側をゆっくり歩きながら見物をしていると、タレントさんがふと立ち止まって、「この庭はどこにあるのですか」と、案内のお坊さんにパンフレットの写真を指差してたずねています。「ここです」との答えに目の前を見ると、奥行き五メートルくらいの小さな庭です。これには、さすがにタレントさんも二の句がつげなかったようです。パンフレットに載っていたのは超広角レンズで撮ったもので、いかにも広大な庭に見えたのです。