2015年12月1日火曜日

中国の交通事情を考える

この設備の中には、振動や埃を極端に嫌う精密設備が数台含まれている。日本から特殊トラックに載せたまま、フェリーで中国の港まで行き、そこから工場建設現場まで特殊トラックに載せたまま輸送するのだ。中国の交通事情を考えると途中で他の車にぶつかられ、設備が台無しになると困るので工場まで公安(交通警察)の車に先導させ、回りも公安の車で固めて夜にゆっくりと五〇〇ほど運んだ。運ぶことはそれなりに苦労したが、そのような機械なので、工場にどのようなタイミングで運び、搬入し、据付けるのか非常に重要であった。普通なら、設計図面に基づき、施工図面を作成し、設備や材料の搬入等を考慮して、建屋を建設してゆくのだが、設計図面はあるが、施工図面がない。必要な材料リストがあり、納期も記入されているが、それに基づいた納入順に記入された詳細な日程表がない。

従って何をどのように設置していくかが一目で分からない。見ているとぶっつけ本番に近く、あとは現物あわせである。何かいつ搬入され、どの順番で設備を設置するのかのリストがないので、いつ何を行うかの予定が立だない。聞けば、日程表や図面を書いても無駄であるとのこと。理由は簡単。何かいつ搬入されるか分からないというのだ。即ち、契約納期はあっても守られない。しかし材料や設備が全て整うまでは待っていられないので、材料が来るたびに、全体を見ながらその場で責任者が進めていく。大物の設備がある場合は、それを搬入する順番も大事であるが、納期の関係で、彼らは、大物の設備の搬入の順番に関係なく、建屋の建設を到着した材料を使用して建設をどんどん進めていく。

特に冬場に差し掛かる時は、建設を急ぐ。理由は冬場のコンクリート打ちは、寒さで凍ってしまうので工事が出来ないからだ。(これは北京以北の東北地方の場合)出来上がってしまってから大物設備が来ると搬入に必要な場所を壊してしまう。これもレンガ造りであるから簡単である。そこから改めて、大物設備を運び込む。工事はそれで済むが、プラント契約などをして技術者の派遣をする場合、予定が立たず本当に困る。技術者を現地で遊ばすわけに行かない。かといって、彼らが必要な時に、簡単に出張に出すというわけにも行かない。日本側の日程もある。この工事のやり方には、散々手を焼かされた。これは、一九九七年頃の話だが、現在でも殆ど変わらないと聞いている。最近、私の住んでいる住居の前でマンションの建設工事が始まった。

前述したような工事の仕方で進めていく。マンションは数棟あり、全体を同じ速度で進めるわけでもなく、また、ある棟から順番に進めているようにも見えない。建物が建って詳細なところに来ると、図面を見て作業する姿も見えない。巻尺を持ってきて、現場で材料を加工して現物あわせしている。現場責任者が毎日のように、作業済みのところをチェックして回っている。翌日は指示がどのようにあったのか知らないが、再び手直しをしている。このようにして殆ど完成したが、いまだに購入者に部屋の鍵を渡していない。見ていると既に出来上がった屋根を再び部分的に剥がして手直しを始めた。恐らく雨が漏るのであろう。屋根以外もあちらこちらを手直ししている。面白いので毎日の如く進捗状況を観察していた。

私の会社の社員もこの度マンションを購入した。彼は最上階であった。工事の状況調査の為に、たびたび有給休暇を取る。彼にまだ住めないのかと質問をすると、未だ住めません。理由は屋根から漏水する。これではとても住めない。建設会社に文句を言うと、建設会社は愛想が良い。これはあちこちに言いふらされては困ると言うことだが、真面目に修理をしているとは思えないと。既に七回目の修理だという。私か諦めるのを待っているのではないかと言ったが、彼にとっては深刻な問題で諦めるわけには行かない。一生の問題である。何故こんなことが発生するかとなると、施工表には、材質等は書かれていない。メーカー名も書かれていない。建設会社はコストを下げてその分を利益にする為に、安い粗悪品を使用して問題なければその分利益が増える。

2015年11月2日月曜日

難民問題への戦後の対応

日本の上海占領は、初めのうちはユダヤ人に対してほとんど影響を与えなかった。むしろ、租界の市会側か、難民の集中的流入による財政負担について、国際的な難民救援民間団体であった連合配給委員会(Joint Distribution Committee)に資金提供を求めた。それぽかりでなく、その代表者だもの本国が日本と険悪な状態にありながらもそれぞれ徴妙に、日本との関係の維持を図っていたことを考慮して、ユダヤ人難民がこれ以上多数、上海に行くことをやめさせるようにナチスに要請するのであった。ナチスは、その要請を拒否した。

他方、日本では一九三八年コー月、近衛内閣が五相会議で、「ユダヤ人対策要綱」を決定した。そのなかで、独伊両国との同盟関係に配慮しつつも、戦争遂行上外資導入が必要なこと、対米関係の悪化を避けることを考慮して、ドイツの極端な反ユダヤ政策にはくみせず、「日満支」に来往するユダヤ人を公正に処遇する、と定めた。しかし、山下肇関西大学教授が新聞紙上で指摘しているところによれば、政府の真意は、かつて日露戦争時米国ユダヤ財閥からの借款に成功した高橋是清のひそみにならうことにあった(「上海の亡命ユダヤ人と日本」『朝日新聞』一九八九年二月二三日夕刊)。

ともかくも、ユダヤ人難民に対する公正な処遇といっても、上海地区についてみれば、日本軍の占領地にとりかこまれた上海租界という独特の地域に難民が流れ込むことを阻止しなかったことを意味するにすぎなかった。「日満支」にやってきたユダヤ人に対する処遇原則は、せいぜい、外国人一般に対して適用される外国人入国取締規則をユダヤ人にも適用することであった。そして、ユダヤ人を「積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避」けることとして、これらの地域、とりわけ日本本土に、平ダヤ人を難民としては受け入れないことを意味していた。それにもかかわらず、「資本家、技術家の如き特に利用価値あるものは此限りに非ず」とし、このようなユダヤ人に限っては、外国人取締規則の運用によってその受け入れを認めることにしたのである。

ここには、ユダヤ人に対する恩情をみせておいて、ユダヤ財閥から戦費を得よう、ユダヤ人の高度の技術力を軍事的目的に利用しようという政府の魂胆が、露骨に表わされている。それは、ユダヤ人難民の人権尊重や、人道的見地とはほど遠い姿勢であった。確かに、日本の一外交官が、ポ上フンド脱出を図るユダヤ人に対して、人道的見地から本省の訓令のないままでも査証を発行した、という例もある(この外交官の人道的措置にういては、一九九〇年八月一五日のNHKスペシャル「国境の向こうの歳月・シベリア 未帰還者の手紙」のなかで報道された)。しかし、本省はこの査証を有効と認めなかった。

敗戦後の日本は占領管理下におかれ、出入国管理権も占領軍の下にあった。この時期に、難民が日本の地にやってきたという事例は、知られていない。むしろ、日本が植民地支配をしていた朝鮮や旧満州、軍事占領していた中国の一部地域などでは、敗戦直後の混乱のなかでたくさんの日本人が広義の難民となった。今日なお問題となっている中国残留日本人孤児は、このときに生じたのである。

また、一九五〇年に勃発した朝鮮動乱の際、戦線の移動とともに、たくさんの北朝鮮住民が、韓国軍支配地域に流れ込んだが、これらの戦災難民は、戦線が行きつ戻りつと移動した最中に行なわれた国連の朝鮮復興開発委員会の懸命な保護活動によって韓国の地にとどまった。この状況下、一部の人々が日本にも流れ込んできたが、密入国者として扱われ、日本において難民として保護されることはなかった。

2015年10月1日木曜日

外発的な開発戦略

文化については、アメリカ人も非常に理解を示す。私たちも、アメリカの文化を理解する。ソ連についても同じで、キエフのバレエを大分で公演するにしても、共感を持って迎えられる。文化というのは、相互の考え方の相違を乗り越えて理解できるジャンルである。

これが人間のつくった制度になると、歴史的なしがらみや民族的なし、がらみがあって難しい。経済問題では日米関係は、貿易摩擦から構造協議へと少しギクシャクしている。ギクシャクを埋める努力をこれからやらないといけない。その意味で、地域と地域を結ぶローカル外交が役に立つと思う。

地域住民同士がホンネの交流を積み重ねることによって国益の衝突を緩和し、ひいては相互理解にたどりつく。もちろん限界はある。限界はあるが、これを着実にやらないと相互理解は果たせないし、地域の発展もありえない。「インターナショナルからインターローカルへ」である。

一村一品運動は地域の内発的な発展力を生み出す開発手法である。これから述べようとする手法は外発的、つまり外部からハイテク企業や頭脳産業を導入して、その地域にインパクトを与え、地域の経済構造を変革していくというやり方である。

これまで日本の国土づくりの指針としては、拠点開発方式をうたった「全国総合開発計画」(昭和三七年)、大規模プフシェクト構想を打ち出した「新全総」(四四年)、定住構想を提唱した「第三次全国総合開発計画」(五二年)、この三仝総を継承発展させた交流ネットワーク構想を提唱している「第四次全国総合開発計画」(六二年)がある。

終戦後、今日までの国土開発計画は、人口と産業の適正配置を目的としている。たしかに工業分散についてみると、鉄鋼、石油、石油化学、自動車、造船、紙パルプなどの大量の工業用水や大型港湾、若年労働者の雇用を必要とする業種の多くは地方に立地した。しかし最近は、労働力コストの上昇に伴って、FA(ファクトリー・オートメーション)化かすすみ、地域の雇用についてさほど効果がみられないところもある。

2015年9月1日火曜日

一六世紀の地金流通

歴史家のユイグ夫妻は言う。「問題は、たぶん権力の問題だろう。スパイスは資本主義の物語の中心にあり、その物語のなかでは、大きな商業都市の対立がみられたからである。ヴェネツィア、ジェノヴァ、リスボン、アントウェルペン、アムステルダムがもった持続的な優位性の大半は、スパイスの掌握に依拠」したと。「アジア物産」を求めるヨーロッパのアジア志向は歴史とともに古いが、それは同時にヨーロッパにおける覇権を掌握する鍵でもあったのであり、だからこそ、東西交易を求めるヨーロでハの欲求は大きく、身を賭した多くの冒険家が輩出したのである。

ヴェネツィアの商人だったボーロ家の人びと(マルコーポーロ、父、叔父)もそんな中にあった。かれらはヴェネツィアを発って長いアジア旅行に出る。そのマルコの旅行記『東方見聞録』に刺激されたジェノヴァ出身のクリストファー・コロンブスが、それから二世紀以上を経た一四九一一年、三隻の艦隊を率いてリスボンを発ち、カリブ海のサンーサルバドル(「聖なる救世主」の意)に到着した。スペインのセビリアにある「インド関係総文書館」に保存されている『東方見聞録』の一巻に、コロンブスの手になる三六六ヵ所もの欄外の書き込みがあり、そこには「常に疲れを知らぬ執着心」、つまり「黄金、銀、真珠、香辛料に対する執着心」が浮き彫りになっているという。クリストファー、つまり「キリスト教を伝える者」であるコロンブスの名前からすれば、かれは未知の世界への伝道者たる心算だったのかもしれない。

この『東方見聞録』について、大英図書館の中国部門の主事であるフランジスーツドは主張する。『マルコーポーロは本当に中国へ行ったのか』のむかで、ジパングをはじめとしたアジアをヨーロッパに初めて紹介したマルコーポーロのアジア探訪が事実であったかどうか疑わしい、と。訪問したはずのアジアにマルコの足跡がほとんどないという事実がその根拠だが、イタリアの熱狂的マルコ支持者から猛烈な反発をくらった。『東方見聞録』の真偽のほどを判断する能力はないが、その物語は、当時のヨーロッパを覆うアジア熱がいかに熱狂的なものであったのかを教えてくれる。

中世ヨーロッパにおいて、コロンブスをはじめ、アジアをめざして西方(東方ではない)に向かうヨーロッパの人びとの野心には、並々ならぬものがあった。アメリカ先住民が長い間、なぜ「インディアン」と誤って呼ばれ続けたのか。そこにも、歴史的誤解をそのままにしてきた、ヨーロッパのアジア熱の高揚を推察することができる。

一五世紀末の、コロンブスによる「西インド」諸島到着と、ヴァスコーダーガマの喜望峰経由でのインド到達によって、ヨーロッパを仲介にアジアとアメリカが結ばれ、一六世紀には文字通りの世界市場が出現した。世界経済の始まりを二一世紀だとする論者はここに着目する。世界システムの独自の運動に資本主義の始まりを求めたイマニュエルーウォーフーステインも、中世における地中海世界の衰亡を綴ったフェルナンーブローデルも、いずれもニ一世紀論に熱心だった。

2015年8月1日土曜日

三つの構造変化

この当時、自動車などの耐久消費財の需要も増加した。これも一時的な増加にすぎなかったのだが、需要増加を構造的なものと見誤った企業は、生産設備の積極的な拡張を行なった。それが企業収益を長期間にわたって圧迫したのである。これについての詳細は、つぎの文献を参照。野口悠紀雄『バブルの経済学』日本経済新聞社。

それでは、日本経済は、現在いかなる構造変化に直面しているのか?ここでは、とくに重要なものとして、アジア諸国の工業化、新しいネットワーク技術の展開、人口高齢化の三点を指摘したい。構造変化の第一にあげられるのは、一九八〇年代後半以降のアジア諸国に起こった急速な工業化である。短期的にみれば、ここ数年間、アジア諸国は金融危機や通貨危機によって混乱した。ただし、これはどちらかといえば、一時的な現象である。長期的にみれば、アジア諸国は、今後も成長を続けると考えられる。つまり、これは、構造的な変化だ。

アジア地域は、二一世紀に向かう成長センターといわれている。今後の世界経済の焦点がここにあることは、疑いないだろう。めざましいNIESの経済発展 アジア諸国のなかには、NIES、アセアン、中国という、発展段階の異なる三つのグループが含まれる。「NIES」には、韓国、台湾、シンガポール、香港の四つの地域が含まれる。これらの地域は、以前から工業地域ではあったが、その中心は、労働集約的な軽工業だった。

しかし、一九八〇年代に、NIESはハイテク産業や重化学工業に進出した。現在では、この分野で世界をリードする先進的な工業国となっている。たとえば台湾は、世界一のパソコンの生産国だ。NIESの経済発展がいかに著しいかは、さまざまなデータでうかがうことができる。ここでは、つぎの二つのデータをみよう。表は、一人当たり国民所得を比較したものである。これは、国の豊かさや発展段階を示すものとして、しばしば用いられる指標だ。

一九八〇年代までは、シンガポールや香港は、英国よりもかなり低い水準にあった。われわれがもっているイメージは、これに近い。ところが、一九九三年に、シンガポールと香港の一人当たり国民所得は、英国を抜いた。その後も英国との差ぱ開いている。つまり、これは一時的な変化ではなく、構造的な変化である。現在、シンガポールは、一人当たり国民所得で米国や日本をも抜いており、世界で最も豊かな国の一つとなっている。

2015年7月1日水曜日

アメリカ科学アカデミー紀要

当時、三十一歳だった夫より十歳ほど年長の博士は、心身共に充実した時期だったのですね。「先生は、僕たちが夜明けまで実験していると思っているのかな」と研究室の仲間も笑っていました。「この生活がもっと続いてもいいな」と、私は思い始めていました。日本では大学院生でしたが、ここではフェロー(研究員)として朝九時から夜八時ごろまで枯草菌のDNA合成酵素の研究に取り組み、給料も頂ける。しかも、雑務や人間関係に煩わされることもまったくなく、研究に没頭できるのです。

アメリカにいた方が、展望が開けそうな気がしていました。日本に帰っても、女性には研究者の職なんて考えられない時代でしたから。アメリカの女性研究者たちが、うらやましく思えたものです。夫も留学中に名古屋大が休職扱いになり、在籍していた研究室の指導教授も辞めていました。「帰る場所がなくなってしまったな」と悩んでいた夫に、思いがけず、大学から「生化学教室の助教授にどうか」というお話がありました。日本で好きな研究に取り組むことができるかもしれない。六三年三月、私たちは帰国の途につきました。実験器具の不備などの困難は覚悟の上でした。

七三年春に下の娘が生まれだ直後、夫の岡崎令治が白血病を発病しました。国際的な評価を受けた「DNA不連続複製」の仮説を完全に実証するため、研究室の総力を挙げて取り組んでいる最中でした。夫の白血病がわかったのは、手の皮膚におかしな出血が始まり、検査してもらったからでした。ぼう然としている私に、「余命はあと二年あるかどうかです」と医師が告げました。広島に実家があり、「旧制中学の時に被爆した」とは聞いていました。被爆との因果関係はわかりませんが、夫はあの夏のことを思い出したようでした。

四五年八月六日に原爆が投下された時は学徒動員で郊外にいて命拾いしたのですが、「直後に市内に戻って何日か野宿した」といいます。被爆者手帳も持っていて、五六年に結婚した時には、私の両親も夫の健康を心配していました。発病してからも、夫の研究に対する姿勢は変わりませんでした。目立った症状もなく、七五年に入院するまで、研究を全力で続けました。DNAの不連続複製の仮説は六七年に『アメリカ科学アカデミー紀要』に発表しましたが、未解決の課題が残されていました。DNA短鎖の合成が始まる仕組みがわかっていなかったのです。私たちは、RNAが合成開始にかかわっている可能性を検討しようとしていました。

七五年三月、私たちはカナダで開かれた国際会議に招待され、最後の旅に出ました。カリフォルニアにも足を延ばし、恩師のアーサー・コーンバーグ博士にお別れの挨拶をした後十四年前の留学時代に二人でよくドライブした思い出の道を夫が運転しました。サンフランシスコに通じるひなびた道です。夫の体を気遣うコーンバーグ博士からは、「絶対に運転させないように」と言われていたのですが、夫は運転をやめませんでした。帰国後、夫はすぐ入院して四か月後の八月一日に亡くなりました。四十四歳でした。大学助手の身分だった私は、研究のことや子供のことなどで助言が欲しかったのですが、夫は「好きにしたらいい」としか言ってくれませんでした。

2015年6月1日月曜日

労働コストの安定がインフレの芽

債権国・日本が90年代に入って経験した不況は、戦後未曾有のものであった。この不況の原因は、じつは複雑である。金融機関の不良債権問題のみが声高に叫ばれたのは、その解決が急がれたという意味では正論であろうが、そればかりが強調されては不況の全体像を捉え損ねることにもなりかねない。不良債権問題それ自体が、プラザ合意後の対米協調金利政策の結果であることはこれまでに見てきたとおりだが、ここで強調しなければならないのは、アメリカの円高誘導策が平成不況に及ぼした直接的な影響についてである。

まず、これをモノ作り部門について見てみよう。バブル崩壊のもとでの円高の進行は、アメリカの好況のちょうど裏返しの影響を日本経済に与えたといえる。その中心的経路は、製造業との関連では次のように整理される。「円高→輸出減・輸入増→鉱工業生産の低下→労働生産性の停滞→単位労働コストの底上げ」さらに実効レートによる円高の程度がドル安のそれより大きかったことが、その影響をはるかに強烈なものとした。先にアメリカのドルについて見た為替の実効レートは、円の場合、95年には90年に対し約4割も上昇している。これは、主要貿易相手国としてアメリカの占める割合がきわめて高く、また、90年以降は、ドル安というより円の独歩高が続いたためであろう。

これらの指標のうち単位労働コストについて見てみよう。単位労働コストは、91~95年の間、自国通貨(円)ベースの上昇率(ベース・アップなどによる通常の上昇率)は6~7%でアメリカとあまり差がないのに、これを実効為替レートではじくと5年間の上昇はきわめて大幅である。このように単位労働コストが対外的には大幅に上昇したことが、「産業空洞化」を過度に進めるとともに、円高による「輸入価格の低下→デフレ圧力」との間で大きな矛盾となった。輸入価格の低下によるデフレ圧力がある一方で、海外の産業との価格競争力を左右する実効為替レートでの労働コストが上昇した。これでは製造業部門は立ち行かない。労働コストの安定がインフレの芽を摘むという好循環を呼んだアメリカの場合とは対照的である。

2015年5月1日金曜日

国債に吸い込まれるマネー

国富ファンドの台頭も意外なところで円の見直しにつながるかもしれない。安全を重視する外貨準備が債券運用中心なのに対し、収益を追求する国富ファンドは株式運用にも比重を置く。だから日本の株式時価総額が世界全体で一〇%以上を維持できれば、国富ファンドに占める円資産の比重は、円建て比率が三%強にとどまる外貨準備に比べて高くなる可能性がある。そのためにも、企業がグローバルな競争力を高めるとともに、主体的な通貨戦略を立てられるだけの総合的な国力の回復が欠かせない。長い目で見た日本の課題はハッキリしている。束アジアー中国-米国という経済交流が深まるなか、自らの比較優位を確保できる成長産業を発展させ、持続的な成長を果たすこと。欧州がECUという舞台でビジネスを競ったように、アジアという舞台で日本の金融が実力を発揮することだ。

日本の名目GDPが年換算で初めて四百兆円に乗せたのは一九八九年一-三月期。平成元年のことだ。五百兆円乗せは九六年一一三月期である。バブルが崩壊しても、七年かけて日本経済は百兆円拡大した勘定になる。実は、民間企業や家計がバブルの後遺症に悩むなか、この景気拡大を支えたのは、公共投資なのである。不良債権問題が金融危機となって翌九七年に火を噴き、日本経済は決定的に失速した。その後、小泉改革などを経ていったんは立ち直ったかにみえたが、○八年九月のリーマンーショックを機に釣瓶落としとなり、いまだに立ち直っていない。

直近の○九年度の名目GDPは四百七十六兆円だが、これは九一年度以来の低水準だ。日本経済は失われた十年どころか二十年のトンネルの只中に入ってしまったといってよい。企業と家計が傷つき内需が低迷したことが長期低迷だ。○三年以降の景気回復は外需に依存する度合いが高まった分、世界経済後退の波を受けやすくなったのだ。○九年九月に誕生した民主党政権は、「福祉経済」のスローガンを掲げる。外需ではなく、内需主導の経済を目。指すと意気込む。従来の予算の無駄を「仕分け」して、浮いたお金で子ども手当などを導入し、消費を盛り上げようという。この路線の最大のリスクは過去二十年にわたり底割れしそうになるたびに経済を支えてきた、財政の破綻である。

2015年4月1日水曜日

東京の日本人脱北者

長白の宿でこんな話を聞いた。「先月、長白に隠れ住んでいた七人の北朝鮮女性が逮捕され、恵山に強制送還された。彼女たちは食事にありつくため売春を続けていたらしい。恵山では一日二食しかできないが、一食を確保するのも容易ではなくなっている」この宿ではソウルに住む初老の韓国人とも知り合った。彼は観光客ではなく、恵山出身の失郷民、いわゆる離散家族だ。韓国にいる恵山出身者で構成される恵山会の会長をしていると名乗るこの男性は、前年夏に恵山市に残る家族や親戚一五人を脱出させ、韓国に連れ帰ったという。今回は残る数人を脱出させるために来たというのだ。危険が伴うためこれ以上の話は聞かせてもらえなかったが、私か初めて接した具体的な脱北情報だった。

この取材から二年後の九九年暮れ、東京で日本人脱北者の宮崎俊輔氏から北朝鮮を脱出するときの状況を聞いていて、思わずはっとした。彼は九六年九月に恵山から脱出していたからだ。ちょうど私か恵山を訪ねていたときのことである。恵山の少し上流で川幅が狭くなる場所があるのだが、そこが彼の選んだ脱出ポイントだった。私か初めて鴨緑江を挟んで恵山を眺めていたとき、栄養失調で野垂れ死に寸前だった宮崎氏は、日本赤十字社の電話番号だけを頼りに脱出の時期を狙っていた。大量脱北の前触れともなる出来事だったのかもしれない。

今から二〇年前の一九八七年一月二〇日、北朝鮮の清津港を出航した一隻の漁船が福井県沖に漂着した。船に乗っていたのは金満鍛(当時四五歳)氏とその家族の一一人で、日本での取り調べ過程で「南の暖かい国」への亡命を求めていることがわかった。日朝関係への悪影響を憂慮した日本政府は彼らの日本への亡命を受け入れず、韓国政府との協議の末、一一人の身柄を海上保安庁のYS11型機で台湾に移送し、間接的に韓国への亡命を実現させた。地雷原となった軍事境界線を越え韓国に帰順意思を表明する北朝鮮軍人は多数いたが、民間人の亡命はこれが初めてだった。事件は韓国で大々的に報道され、金満鍼一家はたちまち英雄になった。

2015年3月2日月曜日

プライス勧告と島ぐるみの闘争

一九五五年一〇月に、米下院軍事委員会の特別分科委員会のメルビンープライス委員長以下、随員も含め民主・共和両党から二一人程のメンバーから成る超党派の調査団が、沖縄に派遣された。一行は、四日間にわたって土地問題を調査した。そしてその結果を一二項目に要約し、「プライス勧告」として、下院軍事委員会のカールーヴィンソン委員長に提出した。 だが、その内容はといえば、地元住民の期待を完全に裏切るものであった。つまり、地主たちが強く要望した軍用地料の一括払いを取り止めにするのではなく、逆に一括払いによるフィータイトル(永代借地権)の取得を勧告していたからだ。

しかも、勧告にはこんなことも書かれていた。「米軍にとって沖縄は極東の軍事基地として最も重要な地域である。住民による国家主義的な運動も見られず、長期の基地保有も可能で核兵器を貯蔵し、使用する権利を外国政府から制限されることもない。米国は、軍事基地の絶対的所有権を確保するためにも使用料を一括して支払い、特定地域については新規接収もやむを得ない」このようにプライス勧告が核兵器の貯蔵問題を含有内容となっていることに、沖縄住民はショックを受け、土地収用への反対運動はこの勧告をきっかけに「島ぐるみの闘争」へと発展した。

当時、立法院では互選で議長が選ばれていたが、行政の長たる琉球政府の主席も司法の長たる高等裁判所の裁判長も、米国民政府の任命によるものであった。それだけ、米軍の力は強大だった。五六年六月、「プーフイス勧告」の内容を知らされた琉球政府は、「もし米軍が上地を守る四原則を認めなければ比嘉行政圭席以下、公務員全員が総辞職する」と表明し、抵抗する姿勢を示した。これに対し、米国民政府のヴォンナ・F・バージャー首席民政官は、「総辞職をしたら米国民政府が直接統治をする」と強圧的に出た。そのため琉球政府は総辞職方針を引っこめて妥協をせざるを得なかった。

こうした中、当時那覇市長だった当間重剛氏に代表される一括払い是認論者たちが台頭してきた。つまり、彼らは、アメリカが永久的に土地の所有権を確保しないことを前提にして、しかも沖縄側の主張する適正補償を認めるならば、必ずしも一括払いに反対しない。逆に一括払いで得た金を沖縄復興に使うべきだという考え方の持ち主だった。このような沖縄住民あげての島ぐるみ闘争のさなか、五六年一〇月に、比嘉秀平行政主席が急死した。すると、琉球銀行総裁をはじめ地元の政財界人は、こぞって当間氏を主席に推した。

それを受けてブース民政府長官は、主席の公選を主張する人々の意思に反して、当間氏を行政主席に任命した。かくして、長期にわたった土地闘争も、結局のところ、軍用地料を五六年段階の二倍に引き上げること、土地代の支払いは、原則として毎年払い、希望者には一〇年分の前払いをすること、という決定で、五八年末にほぼ終結した。つまり、一括払いは中止されたものの、実際には「四原則をなし崩しにしての妥協」案と批判されながらの決着を見たのである。

2015年2月2日月曜日

財政出動はなぜ効かなかったか

民間資産の実質減価は、バブル崩壊後の日本経済にとって大きなデフレ要因になったわけだが、意外にも見逃されてきたのが、こうした為替レートの変動が景気対策に対して及ぼす影響である。

政府は円高の進行に対応して、以下のような大規模な景気対策を次々と講じてきた。

・92年、総合経済対策 10.7兆円
・93年、新総合経済対策 13.2兆円
    緊急経済対策 6兆円
・94年、総合経済対策 18.3兆円
・95年、緊急円高経済対策 4.6兆円
    経済対策 14.2兆円

これらは、合計すると65兆円、GDPの1割以上にも達する。しかし、こうした相次ぐ大規模な対策にもかかわら1930年当時、イギリスはなお、ポンド建て債券による世界最大の債権国であった。したがって、強いポンドはこの対外資産の価値やそれによる利子配当の価値を維持する点ではプラスであった。

しかしケインズはそうしたプラス面よりも、ポンド安による景気浮揚効果、とくに輸出産業の底上げを重視したのである。今日の日本の場合はいっそう条件が悪い。円建てによる対外投資チャネルがいまだに確立されずにいるため、「強い円」は、生産コストの増大により、フローとしての生産活動に打撃を与えるばかりでなく、ストックを通しても、対外純資産の為替差損という形で景気の停滞、デフレ効果をもたらす構造になっている。

円高下における大規模な財政出動による景気刺激策は、いわゆる「ケインズ政策」が、ワン・パターン化した景気対策として定着し、おそらくはケインズ自身も想定しなかったような状況で続けられたものと見ることができる。

平成不況に対する緊急対策が相継いだ時期を通して、日本の世論の主流を占めていたのは「少なすぎ、また遅すぎる」というアメリカ側の声に呼応するような主張であった。クリントン政権は、登場後、95年夏にいたるまで円高を進行させたが、一方で、そのために当然予想される日本の景気落込みには「懸念」を表明し、日本は日本で「万全の景気対策」についてサミットなどの場で説明し「理解」を求めてきた。対米公約に沿って景気対策を執行すれば、財政の破綻が迫ってくる。財政の破綻が迫れば、ムーディーズその他の米系格付機関による日本国債の格下げが気になってくる。

また、ブッシュ政権末期の日米構造協議は、日本に長期の公共投資拡大を約束させたが、これが公共工事に関連する政・官・業の利益集団のパワーを強化させることになった。こうした利益集団は円高による打撃からはもっとも遠く、逆に、円高の機を捉えて自らの利益とする政策、公共投資を誘導することには長けている。円の過大評価は、次章で見るように、日本経済の明日がかかるハイテク関連産業の海外展開を過度に進め、これら産業部門の空洞化を招く一方、日本の「土建国家化」を促す。これは産業構造の退行現象といえるだろう。

ケインズが説くような、通貨の過大評価を是正する方途が、はたして日本にはなかったのだろうか。私たちは、アメリカの政策当局者のわずかな口先介入が、しばしば潜在的条件からは説明できないほど大きな為替の変動を招き、逆に日銀の積極的な介入が焼け石に水といった状況をくり返し見せつけられている。これらの経験に照らしても、日本が景気対策の王道として、円相場の適正水準を自ら保持することは困難であるように思われる。

しかし、じつは有効な円高是正策がないわけではなかった。90年から95年にかけて、日米経済の再逆転の過程を追うなかで、アメリカが一貫して追求してきた円高・ドル安政策のインパクトを分析した。ここでも結論は次のように要約される。

日本政府が、早い時期に円建て投資環境の整備を押し進めていればどうであったか。円建ての対米資産が多ければ、いたずらに自国通貨ドル・ベースでの債務を膨らませる円高政策を、アメリカといえども、むやみに押し進めることはできなかったのである。

だが、日本の政策当局者は、すでに、70年代から80年代前半にかけての、かけがえのない好機を逸してしまった。95年以降、アメリカ経済の「一人勝ち」が喧伝されるなかで、日本経済には、マネー敗戦の荒涼とした戦後の光景が定着することになる。

2015年1月5日月曜日

何をもって国際化と呼ぶのか

自分の実績の底の浅さを周囲に知られたくない。修羅場と言われる外国人相手のビジネスで、狭い世界だから通用している自分の実績の底の浅さを周囲の人間に知られたくないというタイプの人もいる。そういう人がリーダーの地位にあると、その部下や、顧客や仕入先など利害関係者は必ず不幸になる。少子高齢化で国力が衰えつつある日本だけを舞台にビジネスをやろうとする人、あるいは日本にはまだまだ潜在的市場と成長力があると日本にこだわる人には、他人に言えない本音や弱みがあるのかもしれない。

ビジネスとは感情よりも論理で行なうものである。もちろん情の要素は大いにあり、私もビジネススクールなどで講義をする際には情の大切さを強調している。しかし、全てが情で押し 切れるほどビジネスの世界は甘くない。それが十分わかっているはずのリーダーが、極端に日本にこだわるというのは、論理を超えた何かがあると考えたほうがよさそうだ。何らかの劣等感であれ、自己不信であれ、リーダーの弱さに振り回されては、周囲は迷惑する。七十代以上の経営者だけでなく、中年の幹部の中にも、未だに「毛唐(外国人の古い蔑称)は嫌いだ」と公言する人がいる。リーダーに非論理的な、外資回避、外国人拒否の姿勢が見えたら、補佐役や周囲は、リーダーの頑迷さに代わる新たな考え方を用意する必要があるだろう。

本当ならば、そうしたリーダーは別の人に代えるのが一番よいが、それが難しい場合、彼なしで外資や外国人とのビジネスを始める道を模索するのがよいだろう。組織の堅さは脆さにつながるものである。こうした頑ななリーダーが長くその地位を保持している組織が、今後も繁栄を続けるのは難しいだろう。ビジネスの世界では、それがトップの嗜好であっても好き嫌いで意思決定が左右されるのは健全な状態ではない。好きな人や会社とばかり仕事ができればそれに越したことはないが、実際には嫌いな人間やいけ好かない企業ともビジネスを行なわなければならない。外資や外国人と、彼らがただ日本にルーツがない、日本人ではないという理由で取引を拒むのは、経済的な損失のみならず、精神的にも損失であると私は考える。自らの成長の機会を奪うことにつながると思うからだ。

さて、ここまで国際化という言葉をきちんと定義しないで使ってきたが、国際化という概念について少し言及したい。国際化の反対語として「国内化」とか「日本化」といった言葉が一般的に使われていない状況で、「国際化とは何ぞや」という問いに真正面から答えるのはなかなか難しい。国際化の現象面としては、企業内の外国人社員数や比率とか、海外拠点数とか、海外売上などが挙げられるだろう。しかし、これらは外側から見た国際化の指標にはなっても、企業の内部の国際化のものさしとしては不十分である。

売上高、社員数ともに海外が国内を凌駕しているある日本のエレクトロニクス企業においても、社外役員を除いて外国人の役員はいない。国際企業と言われる割には、部長クラスまで下がってみても、本社はおろか海外拠点ですら外国人の管理者は驚くほど少ない。この企業では社員の国際化が急務の一つとされているが、そのための指針、体制、研修といったところにまで十分な配慮がなされていないように見える。国際化の優等生と言われるソニーやトヨタにおいても、一介の外国人社員が、本社で役員にまでのぼりつめるためのキャリアパスははなはだ不透明なままなのである。