2015年1月5日月曜日

何をもって国際化と呼ぶのか

自分の実績の底の浅さを周囲に知られたくない。修羅場と言われる外国人相手のビジネスで、狭い世界だから通用している自分の実績の底の浅さを周囲の人間に知られたくないというタイプの人もいる。そういう人がリーダーの地位にあると、その部下や、顧客や仕入先など利害関係者は必ず不幸になる。少子高齢化で国力が衰えつつある日本だけを舞台にビジネスをやろうとする人、あるいは日本にはまだまだ潜在的市場と成長力があると日本にこだわる人には、他人に言えない本音や弱みがあるのかもしれない。

ビジネスとは感情よりも論理で行なうものである。もちろん情の要素は大いにあり、私もビジネススクールなどで講義をする際には情の大切さを強調している。しかし、全てが情で押し 切れるほどビジネスの世界は甘くない。それが十分わかっているはずのリーダーが、極端に日本にこだわるというのは、論理を超えた何かがあると考えたほうがよさそうだ。何らかの劣等感であれ、自己不信であれ、リーダーの弱さに振り回されては、周囲は迷惑する。七十代以上の経営者だけでなく、中年の幹部の中にも、未だに「毛唐(外国人の古い蔑称)は嫌いだ」と公言する人がいる。リーダーに非論理的な、外資回避、外国人拒否の姿勢が見えたら、補佐役や周囲は、リーダーの頑迷さに代わる新たな考え方を用意する必要があるだろう。

本当ならば、そうしたリーダーは別の人に代えるのが一番よいが、それが難しい場合、彼なしで外資や外国人とのビジネスを始める道を模索するのがよいだろう。組織の堅さは脆さにつながるものである。こうした頑ななリーダーが長くその地位を保持している組織が、今後も繁栄を続けるのは難しいだろう。ビジネスの世界では、それがトップの嗜好であっても好き嫌いで意思決定が左右されるのは健全な状態ではない。好きな人や会社とばかり仕事ができればそれに越したことはないが、実際には嫌いな人間やいけ好かない企業ともビジネスを行なわなければならない。外資や外国人と、彼らがただ日本にルーツがない、日本人ではないという理由で取引を拒むのは、経済的な損失のみならず、精神的にも損失であると私は考える。自らの成長の機会を奪うことにつながると思うからだ。

さて、ここまで国際化という言葉をきちんと定義しないで使ってきたが、国際化という概念について少し言及したい。国際化の反対語として「国内化」とか「日本化」といった言葉が一般的に使われていない状況で、「国際化とは何ぞや」という問いに真正面から答えるのはなかなか難しい。国際化の現象面としては、企業内の外国人社員数や比率とか、海外拠点数とか、海外売上などが挙げられるだろう。しかし、これらは外側から見た国際化の指標にはなっても、企業の内部の国際化のものさしとしては不十分である。

売上高、社員数ともに海外が国内を凌駕しているある日本のエレクトロニクス企業においても、社外役員を除いて外国人の役員はいない。国際企業と言われる割には、部長クラスまで下がってみても、本社はおろか海外拠点ですら外国人の管理者は驚くほど少ない。この企業では社員の国際化が急務の一つとされているが、そのための指針、体制、研修といったところにまで十分な配慮がなされていないように見える。国際化の優等生と言われるソニーやトヨタにおいても、一介の外国人社員が、本社で役員にまでのぼりつめるためのキャリアパスははなはだ不透明なままなのである。