2012年8月23日木曜日

日本の外交官の「気概」

渡辺訪朝団の帰国後に、北朝鮮はコメ支援交渉を行う代表団を派遣した。しかし、この代表団には国際貿易促進委員会の幹部を団長に、アジア太平洋平和委員会の担当者などが加わっていた。外務省の担当者を団長にする本格的な「政府代表団」ではなかった。国際貿易促進委員会は、一応は政府機関といわれているので、準政府代表団であった。だが、この際も北朝鮮政府の責任者や外相からの公式のコメ支援要請文書は提出されなかった。

この時には、日本政府は合わせて五〇万トンのコメ支援を行ったが、北朝鮮政府からの公式の「感謝文」は届けられなかった。そればかりか、金容淳書記がコメ支援について「日本からの謝罪を込めた献上品である」と発言し、これが韓国誌で報じられ日本の世論が硬化した。

しかし、「四党基本合意書」にもかかわらず日朝正常化交渉は再開にこぎつけなかった。この背景には、橋本政権の発足がある。橋本龍太郎首相は、国会対策的な北朝鮮への取り組みを嫌い、自民党に自制を促した。日朝問題は、政府を中心に行うという方針を打ち出した。この方針は正しかったが、北朝鮮側の体制が整わなかった。統一戦線部と北朝鮮外務省の主導権争いが展開されていたからである。この争いに巻き込まれたとは知らずに、日本の外務省は統一戦線部の担当者との実務接触を密かに続けたのだった。これが、日朝の外交ルートでの問題の解決を遅らせた大きな原因の一つになった。

日本の外務省の担当者が、統一戦線部傘下のアジア太平洋平和委員会の担当者と接触し外交的な合意をすれば、統一戦線部は「日本の外務省は、統一戦線部との接触と交渉を望んでおり、北朝鮮の外務省は相手にしていない」と主張できる。この結果、北朝鮮の外務省は対日外交の主導権を握る機会を失うのである。この平壌内部のメカニズムを、日本側は理解できなかった。北朝鮮内部で金正日総書記に近い実力者を求めすぎた結果、統一戦線部に「編された」のである。

渡辺訪朝団の派遣後に、韓国は日朝正常化交渉も南北対話の再開に合わせて行うように求めるなど、日朝正常化交渉の再開にブレーキをかけた。また、一九九六年九月には韓国で北朝鮮の潜水艦が座礁し、北朝鮮の工作員と韓国軍の銃撃戦に発展した。この時期に。日朝関係には新たな問題が発生した。日本人拉致疑惑問題である。新潟県で行方不明になった中学生の横田めぐみさんが、北朝鮮の工作員に拉致された疑いが強くなったのである。「拉致疑惑」の解明が新たな問題として登場した。