2015年9月1日火曜日

一六世紀の地金流通

歴史家のユイグ夫妻は言う。「問題は、たぶん権力の問題だろう。スパイスは資本主義の物語の中心にあり、その物語のなかでは、大きな商業都市の対立がみられたからである。ヴェネツィア、ジェノヴァ、リスボン、アントウェルペン、アムステルダムがもった持続的な優位性の大半は、スパイスの掌握に依拠」したと。「アジア物産」を求めるヨーロッパのアジア志向は歴史とともに古いが、それは同時にヨーロッパにおける覇権を掌握する鍵でもあったのであり、だからこそ、東西交易を求めるヨーロでハの欲求は大きく、身を賭した多くの冒険家が輩出したのである。

ヴェネツィアの商人だったボーロ家の人びと(マルコーポーロ、父、叔父)もそんな中にあった。かれらはヴェネツィアを発って長いアジア旅行に出る。そのマルコの旅行記『東方見聞録』に刺激されたジェノヴァ出身のクリストファー・コロンブスが、それから二世紀以上を経た一四九一一年、三隻の艦隊を率いてリスボンを発ち、カリブ海のサンーサルバドル(「聖なる救世主」の意)に到着した。スペインのセビリアにある「インド関係総文書館」に保存されている『東方見聞録』の一巻に、コロンブスの手になる三六六ヵ所もの欄外の書き込みがあり、そこには「常に疲れを知らぬ執着心」、つまり「黄金、銀、真珠、香辛料に対する執着心」が浮き彫りになっているという。クリストファー、つまり「キリスト教を伝える者」であるコロンブスの名前からすれば、かれは未知の世界への伝道者たる心算だったのかもしれない。

この『東方見聞録』について、大英図書館の中国部門の主事であるフランジスーツドは主張する。『マルコーポーロは本当に中国へ行ったのか』のむかで、ジパングをはじめとしたアジアをヨーロッパに初めて紹介したマルコーポーロのアジア探訪が事実であったかどうか疑わしい、と。訪問したはずのアジアにマルコの足跡がほとんどないという事実がその根拠だが、イタリアの熱狂的マルコ支持者から猛烈な反発をくらった。『東方見聞録』の真偽のほどを判断する能力はないが、その物語は、当時のヨーロッパを覆うアジア熱がいかに熱狂的なものであったのかを教えてくれる。

中世ヨーロッパにおいて、コロンブスをはじめ、アジアをめざして西方(東方ではない)に向かうヨーロッパの人びとの野心には、並々ならぬものがあった。アメリカ先住民が長い間、なぜ「インディアン」と誤って呼ばれ続けたのか。そこにも、歴史的誤解をそのままにしてきた、ヨーロッパのアジア熱の高揚を推察することができる。

一五世紀末の、コロンブスによる「西インド」諸島到着と、ヴァスコーダーガマの喜望峰経由でのインド到達によって、ヨーロッパを仲介にアジアとアメリカが結ばれ、一六世紀には文字通りの世界市場が出現した。世界経済の始まりを二一世紀だとする論者はここに着目する。世界システムの独自の運動に資本主義の始まりを求めたイマニュエルーウォーフーステインも、中世における地中海世界の衰亡を綴ったフェルナンーブローデルも、いずれもニ一世紀論に熱心だった。