2015年3月2日月曜日

プライス勧告と島ぐるみの闘争

一九五五年一〇月に、米下院軍事委員会の特別分科委員会のメルビンープライス委員長以下、随員も含め民主・共和両党から二一人程のメンバーから成る超党派の調査団が、沖縄に派遣された。一行は、四日間にわたって土地問題を調査した。そしてその結果を一二項目に要約し、「プライス勧告」として、下院軍事委員会のカールーヴィンソン委員長に提出した。 だが、その内容はといえば、地元住民の期待を完全に裏切るものであった。つまり、地主たちが強く要望した軍用地料の一括払いを取り止めにするのではなく、逆に一括払いによるフィータイトル(永代借地権)の取得を勧告していたからだ。

しかも、勧告にはこんなことも書かれていた。「米軍にとって沖縄は極東の軍事基地として最も重要な地域である。住民による国家主義的な運動も見られず、長期の基地保有も可能で核兵器を貯蔵し、使用する権利を外国政府から制限されることもない。米国は、軍事基地の絶対的所有権を確保するためにも使用料を一括して支払い、特定地域については新規接収もやむを得ない」このようにプライス勧告が核兵器の貯蔵問題を含有内容となっていることに、沖縄住民はショックを受け、土地収用への反対運動はこの勧告をきっかけに「島ぐるみの闘争」へと発展した。

当時、立法院では互選で議長が選ばれていたが、行政の長たる琉球政府の主席も司法の長たる高等裁判所の裁判長も、米国民政府の任命によるものであった。それだけ、米軍の力は強大だった。五六年六月、「プーフイス勧告」の内容を知らされた琉球政府は、「もし米軍が上地を守る四原則を認めなければ比嘉行政圭席以下、公務員全員が総辞職する」と表明し、抵抗する姿勢を示した。これに対し、米国民政府のヴォンナ・F・バージャー首席民政官は、「総辞職をしたら米国民政府が直接統治をする」と強圧的に出た。そのため琉球政府は総辞職方針を引っこめて妥協をせざるを得なかった。

こうした中、当時那覇市長だった当間重剛氏に代表される一括払い是認論者たちが台頭してきた。つまり、彼らは、アメリカが永久的に土地の所有権を確保しないことを前提にして、しかも沖縄側の主張する適正補償を認めるならば、必ずしも一括払いに反対しない。逆に一括払いで得た金を沖縄復興に使うべきだという考え方の持ち主だった。このような沖縄住民あげての島ぐるみ闘争のさなか、五六年一〇月に、比嘉秀平行政主席が急死した。すると、琉球銀行総裁をはじめ地元の政財界人は、こぞって当間氏を主席に推した。

それを受けてブース民政府長官は、主席の公選を主張する人々の意思に反して、当間氏を行政主席に任命した。かくして、長期にわたった土地闘争も、結局のところ、軍用地料を五六年段階の二倍に引き上げること、土地代の支払いは、原則として毎年払い、希望者には一〇年分の前払いをすること、という決定で、五八年末にほぼ終結した。つまり、一括払いは中止されたものの、実際には「四原則をなし崩しにしての妥協」案と批判されながらの決着を見たのである。