2015年4月1日水曜日

東京の日本人脱北者

長白の宿でこんな話を聞いた。「先月、長白に隠れ住んでいた七人の北朝鮮女性が逮捕され、恵山に強制送還された。彼女たちは食事にありつくため売春を続けていたらしい。恵山では一日二食しかできないが、一食を確保するのも容易ではなくなっている」この宿ではソウルに住む初老の韓国人とも知り合った。彼は観光客ではなく、恵山出身の失郷民、いわゆる離散家族だ。韓国にいる恵山出身者で構成される恵山会の会長をしていると名乗るこの男性は、前年夏に恵山市に残る家族や親戚一五人を脱出させ、韓国に連れ帰ったという。今回は残る数人を脱出させるために来たというのだ。危険が伴うためこれ以上の話は聞かせてもらえなかったが、私か初めて接した具体的な脱北情報だった。

この取材から二年後の九九年暮れ、東京で日本人脱北者の宮崎俊輔氏から北朝鮮を脱出するときの状況を聞いていて、思わずはっとした。彼は九六年九月に恵山から脱出していたからだ。ちょうど私か恵山を訪ねていたときのことである。恵山の少し上流で川幅が狭くなる場所があるのだが、そこが彼の選んだ脱出ポイントだった。私か初めて鴨緑江を挟んで恵山を眺めていたとき、栄養失調で野垂れ死に寸前だった宮崎氏は、日本赤十字社の電話番号だけを頼りに脱出の時期を狙っていた。大量脱北の前触れともなる出来事だったのかもしれない。

今から二〇年前の一九八七年一月二〇日、北朝鮮の清津港を出航した一隻の漁船が福井県沖に漂着した。船に乗っていたのは金満鍛(当時四五歳)氏とその家族の一一人で、日本での取り調べ過程で「南の暖かい国」への亡命を求めていることがわかった。日朝関係への悪影響を憂慮した日本政府は彼らの日本への亡命を受け入れず、韓国政府との協議の末、一一人の身柄を海上保安庁のYS11型機で台湾に移送し、間接的に韓国への亡命を実現させた。地雷原となった軍事境界線を越え韓国に帰順意思を表明する北朝鮮軍人は多数いたが、民間人の亡命はこれが初めてだった。事件は韓国で大々的に報道され、金満鍼一家はたちまち英雄になった。