2013年7月4日木曜日

現役世代の減少

その中で消費に回す時問をこれ以上増やせるのか。難しいとすれば、時間当たりの消費単価を上げるしかない。それは従来よりも高価なものを消費してもらうことによってしか達成できませんね。どうやったらそういう傾向を作り出せるのでしょうか。そういう傾向を長期的に継続させることは可能なのでしょうか。たとえば高価なヨットを買わせるとしましょう。でもそれに乗るには時問が必要です。高価なステージを見に行くとしましょう。やっぱり時間が必要だ。高価な食材を買って、食べずに貯めるとか捨てていくとかすればいいのでは? そうなんです。「買うだけで使わない」という行動を増やしていかない限り、どこかで消費に使える時間の限界が来てしまうのです。

こういうふうに時問を単位にして考えると、一人当たりの消費水準がすでに高くしかも人口が減っている日本のような国での、一人当たりではなく総額としての経済成長というものがいかに困難か、よくおわかりいただけると思うのです。人開か消費というものに飽きない、まるで買い物中毒やギャンブル中毒のようにカネと時間があればより高い商品やサービスの購人につぎこみ続け、しかも買った後には使わない、という状況を想定しない限り、「消費の対時間生産性」がいつまでも伸び続けるというのは想像できません。

一つの打開戦略は、すでに最初の方でお話ししたように、日本の商品がフランス、イタリア、スイスに対抗できるようなブランドを獲得していくこと、国民自身が、そういうプランド価値の高い商品をなるべく消費することです。これは単価上昇を通じて、確かに「消費の対時間生産性」を上げます。ですがすべての商品がそうなれるというわけではありません。といいますか日本の諸産業の多くは、現実に過当競争の中での値下げ競争にあえいでいます。彼らが値下げすればするほど、逆に「消費の対時間生産性」は下がっていってしまいます。近代経済学もマルクス経済学も、労働と貨幣と生産物(モノやサービス)を基軸に構築されてきた学問です。ですが現代の先進国において絶対的に足りないもの、お金で買うこともできないのは、個人個人が消費活動をするための時間なのです。

最も希少な資源が労働でも貨幣でも生産物でもなく実は消費のための時間である、というこの新たな世界における経済学は、従来のような「等価交換が即時成立することを前提とした無時間モデル」の世界を脱することを求められています。我こそば経済学を究めん、と思っている方。ぜひこの「時間の経済学」を考え直し、そして、国民総時間の減少という制約を日本は乗り越えられるのか、という私の問いに答えを出してください。声高に叫ばれるピントのずれた処方たち。長い旅をして参りましたが、ようやくこれまでのところで、日本経済が直面している人口成熟問題のラフスケッチをお示しすることができました。さてそれでは、その上うな深刻な状況にどのように対処していけばいいのでしょうか。そもそも「人が歳を取る」という物理現象に原因があるわけですから、これは対処が可能な問題なのでしょうか。

ご安心ください。対処は相当程度まで可能です。あきらめて座っているヒマがあったらすぐに自分で実践できることが幾つもあります。ただし、一見もっともらしいけれども論理的に破綻していて、やればやるほど経済を損なう大嘘話も世の中には大量に流れていますから、よくよく注意が必要です。そこでまず、世間でよく耳にするさまざまな議論が本当に有効なのか、「生産性さえ上げれば大丈夫」という通念の誤りはすでにご指摘しましたので、それ以外のものを取り上げて、これまでと同じく先入観を排して、論理的かつ現実的に検討してみたいと思います。 「経済成長こそ解決策」という主張が「対策したフリ」を招く日本経済再生への各種の提言を耳にする中で、「マクロ政策で事態を何とかせよ」と主張するものの中には、「おいおい、本当かいな?」と思うものが何種類かあります。その代表が「とにもかくにも経済成長(=GDPの増加)を達成することが大事だ」という意見です。いや意見といっては失礼かもしれない、政官財学の各界の総意であるかもしれません。

2013年3月30日土曜日

超広角、超望遠で視覚の探検

その中から厳選した一枚を大きく引き伸ばしてアルバムに貼っておけば、上達ぶりも一目瞭然。残りのコマは、捨てる前に白い壁や襖にプロジェクターで映し、応接間個展をやってみたらいかがでしょう。仲間うちの甘い合評会より、家族の歯に衣着せぬ批評のほうが勉強になるかもしれませんよ。最近は一般の人の使用も増えてきて、各地で開かれる写真コンテストでも、年々、ダイレクトプリントによる応募作品が増えてきているとのことです。

超ワイドレンズ、マイクロレンズ、超望遠レンズも、一度は体験しておきたいものです。日常的な遠近感とは異質の、視覚の探検とでもいいましょうか、20ミリ前後の超広角レンズをつけてファインダーをのぞくと、ちょっとしたデフォルメ感覚が味わえ、いままで知らなかった世界が見えてきます。これは、遠近感が極端に誇張されるためです。実際は狭い部屋がとてつもなく広く見えたりするので、新聞写真では誤解を招かないよう、わざわざ「超広角レンズで撮影」と注意書きを入れることもあるほどです。

本でも週刊誌でもけっこうですから、その直角になった角の部分を鼻の上、両目の間に水平にして当ててみてください。この角の内側の九〇度の範囲が、20ミリレンズの画角(九四度)とほぼ同じです。これなら自分の目のほうがよっぽど広く見える、と思うかもしれませんが、それは目玉を動かしているからです。片目をつぶって、九〇度の範囲をよく見回してみてください。九〇度が意外なほど広い範囲をカバーしていることに気づくはずです。

ところで、カメラのレンズは焦点が平面に結ばれなければ役目を果たしません。二四×三六ミリの決められたフィルム面積の中に広い範囲を取り込むわけですから、当然、像は見た目よりも小さく写ります。実際に一眼レフカメラに20ミリレンズをつけてのぞいてみるとよく分かりますが、目の前をIメートル離れると左右ニメートル、ニメートル離れると左右四メートルと、倍々で被写体との距離が広がって写ります。ちなみに、人間の目と比較的遠近感が近いといわれる50ミリの標準レンズの画角は四六度で、20ミリレンズの約半分です。

この特性を活かして、強調したいものを大きく画面に取り込んで迫力を出したり、狭い場所で広い範囲を写したいときに利用します。しかし、実際に肉眼で見る遠近感とはかなり違った画像に仕上がるので、超広角レンズで写真を撮った場合は、はっきりとしたデータを示すことを忘れないようにしたいものです。あるタレントさんと奈良の古いお寺へ行ったときのことです。お堂を囲むようにつくられた庭園の石や老木には幾種類もの苔がつき、五百年の時を経た重厚な雰囲気をかもし出していました。

回廊式の縁側をゆっくり歩きながら見物をしていると、タレントさんがふと立ち止まって、「この庭はどこにあるのですか」と、案内のお坊さんにパンフレットの写真を指差してたずねています。「ここです」との答えに目の前を見ると、奥行き五メートルくらいの小さな庭です。これには、さすがにタレントさんも二の句がつげなかったようです。パンフレットに載っていたのは超広角レンズで撮ったもので、いかにも広大な庭に見えたのです。

2012年12月25日火曜日

現代の出産方法


全般的にみると一九八九年、病院など施設での出産は、九九・九%に達している。比較的恵まれた施設では、産科医と助産婦、それに数人の産科の看護婦でチームを組んで助産を行なうが、「産科医だけで助産婦さんは一人もいませんでした」という声を実際に聞いたこともある。またお産は昼夜ほとんど同じくらい起こるにもかかわらず、大部分の産科医は、夜は少数の助産婦と看護婦に出産現場をまかせて自宅待機し、出産直前(排臨)の知らせで良心的な医師は出てくるという。比較的恵まれた状況の病院でさえ、この調子であるから、そうではない産科医院などの実情はどうなのだろうかと心配になる。

さて助産婦や看護婦に関する法律は、「保健婦助産婦看護婦法」といい、一九四八年に制定された。しかし、この法律を作製したGHQの女性看護職者たちの本国アメリカでは、産婆に匹敵するような職業は設けられて1 らず、産婆が過小評価されたこと、また当時の日本は、男女の平等意識も低く、女性看護職の地位も医師に比べて格段に低かった時代に定められたこと夭林道子著『助産婦の戦後』勁草書房にくわしい)などにより、現状とは大変ズレている。しかし、定められて以来いまだに抜本的には変わっていない。いまでは高度な知識や実際の技術が要求され、新開発の産科器機を使いこなし、医師の代わりさえつとめねばならない。これでは助産婦や看護婦が超多忙で、人間的な看護を心がけても限度がある。

もちろん以上は大勢であって、全体ではない。なかには常に産科医がしっかりとつき添い、どうすれば、産婦の納得のいく、いいお産ができるかと、日夜努力している所もある。当然ながら、そのような使命感のある産科医は、常に産婦につき添い、細心の注意で見守っているから、産婦がどのようにしたがっているかも察知しやすく、結果として産婦主体のお産になりやすい。しかし残念ながら、それは少数派だ。

現代の出産方法では大勢をしめる病院や産科医院など、施設における出産方法について述べる。それは、おおむね次の四点にしぼられる。山仰臥姿勢で出産。閣産科医の指導する方法が正しい出産方法だと認知されているため、産婦はお産についてあまり知識を持たないで、産科医の指導に従う方がいいお産ができると思われている。閣お産に必要な知識を持っているのは産科医や助産婦だと思われているから、専門知識を持たない産婦の夫や身内などの参加は、無意味で衛生管理上問題が多いとして、分娩室への産婦以外の入室は認めていない場合が多い。

お産において産科医の行なう技術や知識は、一番大切かつ必要なものとみなされている。一方産婦はお産の知識は持たない素人で、産科医が専門的な情報や技術を説明しても理解できないとみなされている。したがって産科医が知識や技術を行使することについては、インフォームドコンセントは行なわなくてよいという主張が一般的だ。これらについて、産婦の側から考えてみたい。