一九六五年に私がユング派の分析家の資格を得て帰国、心理療法の実際に取り組むことになると同時に、日本で臨床心理学を学ぼうとする人たちの指導をすることになりましたが、そのころもちろん、この両者の主張には、それぞれに根拠があって、たとえば専門家はいらないと主張する人たちは、「専門家」という権威を後ろ楯にして、弱者としてのクライエントを食いものにしたり、不必要に統制したりすることに反発していたわけです。
そのような中で、当時の私が考えていたのは、資格とか専門家とか、制度上の議論を闘わす前に、日本の臨床心理士がそれにふさわしい能力を身につけることが先決だということでした。
実際、心理療法など役に立だないと主張する人たちの中には、それを行うための基本的訓練も受けず、ちょっと真似ごとのようなことをしただけで、その経験をもとに発言している人が多かったのです。
クライエントとともに歩むとか、クライエントの可能性が大切だから、こちらの能力などどうでもいいと単純に考え、それを行おうとしても、素人の熱意や善意だけではどうしようもないし、危険さえともないます。心理療法の訓練を受けていない人が心理療法的なことをはじめて、クライエントをますます悪い状況に追いこんでしまうという例もけっして少なくありません。
そのようなことを考えると、心理療法家としての資格を設定することは、クライエントの利益を守るためにも必要だと思われます。ただし、これは医者や弁護士などの他の専門職の資格とは少し異なるという自覚が必要です。
2012年6月20日水曜日
心理療法家は専門的な教育と訓練を必要とする
心理療法家は専門的な教育と訓練を必要とする点においては明らかに専門職であり、誰でもできるというものではありません。しかし、ほかの専門職と異なり、自分のもつ知識や技術だけではなく、相手の可能性をはぐくみ、それによって勝負するというところがあります。
そして、相手の個性を尊重すれば、必然的に一回一回が新しい発見の場となります。その意味で、多くの専門職の中でも、心理療法家ほど謙虚さを必要とし、「初心忘るべからず」の言葉が生きている世界はないと思っています。
ただ、この点をあまり強調しすぎるのもどうかと思います。ときに心理療法家や臨床心理士などという資格は無用、ないしは有害と主張する人がいます。
つねに初心を忘れず、クライエントとともに歩むことが大切で、資格などを設定することによって、むしろ基本姿勢には妨害的にはたらく「専門知識」などをつめこまれて、慢心を起こし、クライエントにレッテルを貼ることだけに熱心になるので、資格などないほうがいいというわけです。これは、たしかに重要な指摘ですが、この考え方も一面的だと思います。
そして、相手の個性を尊重すれば、必然的に一回一回が新しい発見の場となります。その意味で、多くの専門職の中でも、心理療法家ほど謙虚さを必要とし、「初心忘るべからず」の言葉が生きている世界はないと思っています。
ただ、この点をあまり強調しすぎるのもどうかと思います。ときに心理療法家や臨床心理士などという資格は無用、ないしは有害と主張する人がいます。
つねに初心を忘れず、クライエントとともに歩むことが大切で、資格などを設定することによって、むしろ基本姿勢には妨害的にはたらく「専門知識」などをつめこまれて、慢心を起こし、クライエントにレッテルを貼ることだけに熱心になるので、資格などないほうがいいというわけです。これは、たしかに重要な指摘ですが、この考え方も一面的だと思います。
人間の不可解な部分に向きあう
心理療法家の資質、あるいは素質について、よく尋ねられますが、正直なところ、私にもはっきりしたことは言えません。資質や素質を云々する前に、ともかく本人が「なりたい」と思うことがはじまりで、「本人の意志がある限り、挑戦してみてください」と言うよりはかないでしょう。
ただひとこと言えるのは、「自分はなりたい」というより、「自分こそ適任だ」と思うような人は、あまり心理療法家には向かないということです。いかに豊富な人生経験をもっている人も、それによって悩んでいる人を助けてあげられるのは、きわめて限定された、あるいは表面的な範囲内にすぎません。
心理療法家にとってなにより大切なのは、クライエントの考えや感情であって、クライエントの個性を生かすことです。したがって、自分の人生経験を生かしたいと意気ごむことは、心理療法家に必要な根本姿勢とはまったく逆の姿になります。
また、自分の傷つきやすさを、鋭敏さと誤解して、自分は弱い人の気持ちがよくわかるので、そのような人の役に立ちたいと思うような人も問題です。たしかに、傷のある人は他人の傷の痛みがよくわかりますが、そのようなわかり方は治癒にはつながりません。傷をもっていたが癒された人、傷はもっていないが傷ついた人の共感に努力する人、などによってこそ、心理療法は成り立つのです。
もちろん完全な心理療法家などはいませんから、心理療法をしていても、自分の資質を疑い、迷い、悩み、ときには自分はやめたほうがいいのではないかと思ったりするのも当然で、前述のように、こうしたことを通じて心理療法家は成長していくのです。
自分の心理療法に疑いや迷いがまったくないという人がいたら、私はその人にこそ強い疑いの念を抱きます。人間の不可解な部分を対象としている限り、心理療法というのは、自分の知識や技術を適用して必ず成功するという仕事ではないからです。
ただひとこと言えるのは、「自分はなりたい」というより、「自分こそ適任だ」と思うような人は、あまり心理療法家には向かないということです。いかに豊富な人生経験をもっている人も、それによって悩んでいる人を助けてあげられるのは、きわめて限定された、あるいは表面的な範囲内にすぎません。
心理療法家にとってなにより大切なのは、クライエントの考えや感情であって、クライエントの個性を生かすことです。したがって、自分の人生経験を生かしたいと意気ごむことは、心理療法家に必要な根本姿勢とはまったく逆の姿になります。
また、自分の傷つきやすさを、鋭敏さと誤解して、自分は弱い人の気持ちがよくわかるので、そのような人の役に立ちたいと思うような人も問題です。たしかに、傷のある人は他人の傷の痛みがよくわかりますが、そのようなわかり方は治癒にはつながりません。傷をもっていたが癒された人、傷はもっていないが傷ついた人の共感に努力する人、などによってこそ、心理療法は成り立つのです。
もちろん完全な心理療法家などはいませんから、心理療法をしていても、自分の資質を疑い、迷い、悩み、ときには自分はやめたほうがいいのではないかと思ったりするのも当然で、前述のように、こうしたことを通じて心理療法家は成長していくのです。
自分の心理療法に疑いや迷いがまったくないという人がいたら、私はその人にこそ強い疑いの念を抱きます。人間の不可解な部分を対象としている限り、心理療法というのは、自分の知識や技術を適用して必ず成功するという仕事ではないからです。
登録:
コメント (Atom)