2016年1月4日月曜日

「三C」と「新三C」の間のギャップ

戦後の日本経済をみると、これまでの話の中でみてきたように、消費者の「生活水準向上」があったことは紛れもない事実である。そして、消費者の生活水準を向上させた第一の要因は耐久消費財を中心とする「モノ」を主体とする消費であり、「大量生産、大量消費、大量廃棄物」というサイクルを生み出した。

特にテレビなどの電気製品や自動車などの事例をみると、毎年のように新製品が市場に現れ、買い替え需要に支えられた生産によるGNPへの貢献が大きかった。この時代には消費者が質のよい食料、衣料を購入し、高額な耐久消費財を購入するために所得制約が大きな制約になっていた。たしかに、日本の住環境は先進国の間では決してよいとはいかれなかったが、国土が狭いという理由によって納得し、消費者にとって住居の狭さが重要な制約であるとは考えなかった。

耐久消費財との関連で住居に関する数量制約を考えてみると、「三種の神器」。「三C」と「新三C」の間には大きな断層がある。「三種の神器」は冷蔵庫、洗濯機、テレビ(あるいは掃除機)、「三C」は自動車、クーラー、カラー・テレビ、「新三C」は別荘、セントラルーヒーティング、電子レンジであった。「三種の神器」を考えると、冷蔵庫は台所の隅、洗濯機は風呂場の隅、テレビも居間の隅を利用することで置き場所があった。

「三C」についても自動車は庭の隅、クーラーは窓の下、カラー・テレビは廃棄した白黒テレビの跡に置くというように、従来の住宅のままで耐久消費財を収納することができたのである。しかし、「新三C」の場合には電子レンジを除いて事情が違う。別荘を購入することは新しく家を持つということになり、その維持には大きなコストを必要とする。また、セントラルーヒーティングを設置するためには、従来の家をそのまま利用するというわけにはいかず、家自体を改造し、配管のためには住宅の体積を一回り大きくする必要がある。

このように、「新三C」を購入する際には従来の住居の観念では処理しきれない数量制約が顕在化し、住宅に対する発想の転換を必要としているのである。したがって、「新三C」の普及には、「三種の神器」や「三C」に比べ、長い時間がかかっている。

2015年12月1日火曜日

中国の交通事情を考える

この設備の中には、振動や埃を極端に嫌う精密設備が数台含まれている。日本から特殊トラックに載せたまま、フェリーで中国の港まで行き、そこから工場建設現場まで特殊トラックに載せたまま輸送するのだ。中国の交通事情を考えると途中で他の車にぶつかられ、設備が台無しになると困るので工場まで公安(交通警察)の車に先導させ、回りも公安の車で固めて夜にゆっくりと五〇〇ほど運んだ。運ぶことはそれなりに苦労したが、そのような機械なので、工場にどのようなタイミングで運び、搬入し、据付けるのか非常に重要であった。普通なら、設計図面に基づき、施工図面を作成し、設備や材料の搬入等を考慮して、建屋を建設してゆくのだが、設計図面はあるが、施工図面がない。必要な材料リストがあり、納期も記入されているが、それに基づいた納入順に記入された詳細な日程表がない。

従って何をどのように設置していくかが一目で分からない。見ているとぶっつけ本番に近く、あとは現物あわせである。何かいつ搬入され、どの順番で設備を設置するのかのリストがないので、いつ何を行うかの予定が立だない。聞けば、日程表や図面を書いても無駄であるとのこと。理由は簡単。何かいつ搬入されるか分からないというのだ。即ち、契約納期はあっても守られない。しかし材料や設備が全て整うまでは待っていられないので、材料が来るたびに、全体を見ながらその場で責任者が進めていく。大物の設備がある場合は、それを搬入する順番も大事であるが、納期の関係で、彼らは、大物の設備の搬入の順番に関係なく、建屋の建設を到着した材料を使用して建設をどんどん進めていく。

特に冬場に差し掛かる時は、建設を急ぐ。理由は冬場のコンクリート打ちは、寒さで凍ってしまうので工事が出来ないからだ。(これは北京以北の東北地方の場合)出来上がってしまってから大物設備が来ると搬入に必要な場所を壊してしまう。これもレンガ造りであるから簡単である。そこから改めて、大物設備を運び込む。工事はそれで済むが、プラント契約などをして技術者の派遣をする場合、予定が立たず本当に困る。技術者を現地で遊ばすわけに行かない。かといって、彼らが必要な時に、簡単に出張に出すというわけにも行かない。日本側の日程もある。この工事のやり方には、散々手を焼かされた。これは、一九九七年頃の話だが、現在でも殆ど変わらないと聞いている。最近、私の住んでいる住居の前でマンションの建設工事が始まった。

前述したような工事の仕方で進めていく。マンションは数棟あり、全体を同じ速度で進めるわけでもなく、また、ある棟から順番に進めているようにも見えない。建物が建って詳細なところに来ると、図面を見て作業する姿も見えない。巻尺を持ってきて、現場で材料を加工して現物あわせしている。現場責任者が毎日のように、作業済みのところをチェックして回っている。翌日は指示がどのようにあったのか知らないが、再び手直しをしている。このようにして殆ど完成したが、いまだに購入者に部屋の鍵を渡していない。見ていると既に出来上がった屋根を再び部分的に剥がして手直しを始めた。恐らく雨が漏るのであろう。屋根以外もあちらこちらを手直ししている。面白いので毎日の如く進捗状況を観察していた。

私の会社の社員もこの度マンションを購入した。彼は最上階であった。工事の状況調査の為に、たびたび有給休暇を取る。彼にまだ住めないのかと質問をすると、未だ住めません。理由は屋根から漏水する。これではとても住めない。建設会社に文句を言うと、建設会社は愛想が良い。これはあちこちに言いふらされては困ると言うことだが、真面目に修理をしているとは思えないと。既に七回目の修理だという。私か諦めるのを待っているのではないかと言ったが、彼にとっては深刻な問題で諦めるわけには行かない。一生の問題である。何故こんなことが発生するかとなると、施工表には、材質等は書かれていない。メーカー名も書かれていない。建設会社はコストを下げてその分を利益にする為に、安い粗悪品を使用して問題なければその分利益が増える。

2015年11月2日月曜日

難民問題への戦後の対応

日本の上海占領は、初めのうちはユダヤ人に対してほとんど影響を与えなかった。むしろ、租界の市会側か、難民の集中的流入による財政負担について、国際的な難民救援民間団体であった連合配給委員会(Joint Distribution Committee)に資金提供を求めた。それぽかりでなく、その代表者だもの本国が日本と険悪な状態にありながらもそれぞれ徴妙に、日本との関係の維持を図っていたことを考慮して、ユダヤ人難民がこれ以上多数、上海に行くことをやめさせるようにナチスに要請するのであった。ナチスは、その要請を拒否した。

他方、日本では一九三八年コー月、近衛内閣が五相会議で、「ユダヤ人対策要綱」を決定した。そのなかで、独伊両国との同盟関係に配慮しつつも、戦争遂行上外資導入が必要なこと、対米関係の悪化を避けることを考慮して、ドイツの極端な反ユダヤ政策にはくみせず、「日満支」に来往するユダヤ人を公正に処遇する、と定めた。しかし、山下肇関西大学教授が新聞紙上で指摘しているところによれば、政府の真意は、かつて日露戦争時米国ユダヤ財閥からの借款に成功した高橋是清のひそみにならうことにあった(「上海の亡命ユダヤ人と日本」『朝日新聞』一九八九年二月二三日夕刊)。

ともかくも、ユダヤ人難民に対する公正な処遇といっても、上海地区についてみれば、日本軍の占領地にとりかこまれた上海租界という独特の地域に難民が流れ込むことを阻止しなかったことを意味するにすぎなかった。「日満支」にやってきたユダヤ人に対する処遇原則は、せいぜい、外国人一般に対して適用される外国人入国取締規則をユダヤ人にも適用することであった。そして、ユダヤ人を「積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避」けることとして、これらの地域、とりわけ日本本土に、平ダヤ人を難民としては受け入れないことを意味していた。それにもかかわらず、「資本家、技術家の如き特に利用価値あるものは此限りに非ず」とし、このようなユダヤ人に限っては、外国人取締規則の運用によってその受け入れを認めることにしたのである。

ここには、ユダヤ人に対する恩情をみせておいて、ユダヤ財閥から戦費を得よう、ユダヤ人の高度の技術力を軍事的目的に利用しようという政府の魂胆が、露骨に表わされている。それは、ユダヤ人難民の人権尊重や、人道的見地とはほど遠い姿勢であった。確かに、日本の一外交官が、ポ上フンド脱出を図るユダヤ人に対して、人道的見地から本省の訓令のないままでも査証を発行した、という例もある(この外交官の人道的措置にういては、一九九〇年八月一五日のNHKスペシャル「国境の向こうの歳月・シベリア 未帰還者の手紙」のなかで報道された)。しかし、本省はこの査証を有効と認めなかった。

敗戦後の日本は占領管理下におかれ、出入国管理権も占領軍の下にあった。この時期に、難民が日本の地にやってきたという事例は、知られていない。むしろ、日本が植民地支配をしていた朝鮮や旧満州、軍事占領していた中国の一部地域などでは、敗戦直後の混乱のなかでたくさんの日本人が広義の難民となった。今日なお問題となっている中国残留日本人孤児は、このときに生じたのである。

また、一九五〇年に勃発した朝鮮動乱の際、戦線の移動とともに、たくさんの北朝鮮住民が、韓国軍支配地域に流れ込んだが、これらの戦災難民は、戦線が行きつ戻りつと移動した最中に行なわれた国連の朝鮮復興開発委員会の懸命な保護活動によって韓国の地にとどまった。この状況下、一部の人々が日本にも流れ込んできたが、密入国者として扱われ、日本において難民として保護されることはなかった。