文化については、アメリカ人も非常に理解を示す。私たちも、アメリカの文化を理解する。ソ連についても同じで、キエフのバレエを大分で公演するにしても、共感を持って迎えられる。文化というのは、相互の考え方の相違を乗り越えて理解できるジャンルである。
これが人間のつくった制度になると、歴史的なしがらみや民族的なし、がらみがあって難しい。経済問題では日米関係は、貿易摩擦から構造協議へと少しギクシャクしている。ギクシャクを埋める努力をこれからやらないといけない。その意味で、地域と地域を結ぶローカル外交が役に立つと思う。
地域住民同士がホンネの交流を積み重ねることによって国益の衝突を緩和し、ひいては相互理解にたどりつく。もちろん限界はある。限界はあるが、これを着実にやらないと相互理解は果たせないし、地域の発展もありえない。「インターナショナルからインターローカルへ」である。
一村一品運動は地域の内発的な発展力を生み出す開発手法である。これから述べようとする手法は外発的、つまり外部からハイテク企業や頭脳産業を導入して、その地域にインパクトを与え、地域の経済構造を変革していくというやり方である。
これまで日本の国土づくりの指針としては、拠点開発方式をうたった「全国総合開発計画」(昭和三七年)、大規模プフシェクト構想を打ち出した「新全総」(四四年)、定住構想を提唱した「第三次全国総合開発計画」(五二年)、この三仝総を継承発展させた交流ネットワーク構想を提唱している「第四次全国総合開発計画」(六二年)がある。
終戦後、今日までの国土開発計画は、人口と産業の適正配置を目的としている。たしかに工業分散についてみると、鉄鋼、石油、石油化学、自動車、造船、紙パルプなどの大量の工業用水や大型港湾、若年労働者の雇用を必要とする業種の多くは地方に立地した。しかし最近は、労働力コストの上昇に伴って、FA(ファクトリー・オートメーション)化かすすみ、地域の雇用についてさほど効果がみられないところもある。
2015年9月1日火曜日
一六世紀の地金流通
歴史家のユイグ夫妻は言う。「問題は、たぶん権力の問題だろう。スパイスは資本主義の物語の中心にあり、その物語のなかでは、大きな商業都市の対立がみられたからである。ヴェネツィア、ジェノヴァ、リスボン、アントウェルペン、アムステルダムがもった持続的な優位性の大半は、スパイスの掌握に依拠」したと。「アジア物産」を求めるヨーロッパのアジア志向は歴史とともに古いが、それは同時にヨーロッパにおける覇権を掌握する鍵でもあったのであり、だからこそ、東西交易を求めるヨーロでハの欲求は大きく、身を賭した多くの冒険家が輩出したのである。
ヴェネツィアの商人だったボーロ家の人びと(マルコーポーロ、父、叔父)もそんな中にあった。かれらはヴェネツィアを発って長いアジア旅行に出る。そのマルコの旅行記『東方見聞録』に刺激されたジェノヴァ出身のクリストファー・コロンブスが、それから二世紀以上を経た一四九一一年、三隻の艦隊を率いてリスボンを発ち、カリブ海のサンーサルバドル(「聖なる救世主」の意)に到着した。スペインのセビリアにある「インド関係総文書館」に保存されている『東方見聞録』の一巻に、コロンブスの手になる三六六ヵ所もの欄外の書き込みがあり、そこには「常に疲れを知らぬ執着心」、つまり「黄金、銀、真珠、香辛料に対する執着心」が浮き彫りになっているという。クリストファー、つまり「キリスト教を伝える者」であるコロンブスの名前からすれば、かれは未知の世界への伝道者たる心算だったのかもしれない。
この『東方見聞録』について、大英図書館の中国部門の主事であるフランジスーツドは主張する。『マルコーポーロは本当に中国へ行ったのか』のむかで、ジパングをはじめとしたアジアをヨーロッパに初めて紹介したマルコーポーロのアジア探訪が事実であったかどうか疑わしい、と。訪問したはずのアジアにマルコの足跡がほとんどないという事実がその根拠だが、イタリアの熱狂的マルコ支持者から猛烈な反発をくらった。『東方見聞録』の真偽のほどを判断する能力はないが、その物語は、当時のヨーロッパを覆うアジア熱がいかに熱狂的なものであったのかを教えてくれる。
中世ヨーロッパにおいて、コロンブスをはじめ、アジアをめざして西方(東方ではない)に向かうヨーロッパの人びとの野心には、並々ならぬものがあった。アメリカ先住民が長い間、なぜ「インディアン」と誤って呼ばれ続けたのか。そこにも、歴史的誤解をそのままにしてきた、ヨーロッパのアジア熱の高揚を推察することができる。
一五世紀末の、コロンブスによる「西インド」諸島到着と、ヴァスコーダーガマの喜望峰経由でのインド到達によって、ヨーロッパを仲介にアジアとアメリカが結ばれ、一六世紀には文字通りの世界市場が出現した。世界経済の始まりを二一世紀だとする論者はここに着目する。世界システムの独自の運動に資本主義の始まりを求めたイマニュエルーウォーフーステインも、中世における地中海世界の衰亡を綴ったフェルナンーブローデルも、いずれもニ一世紀論に熱心だった。
ヴェネツィアの商人だったボーロ家の人びと(マルコーポーロ、父、叔父)もそんな中にあった。かれらはヴェネツィアを発って長いアジア旅行に出る。そのマルコの旅行記『東方見聞録』に刺激されたジェノヴァ出身のクリストファー・コロンブスが、それから二世紀以上を経た一四九一一年、三隻の艦隊を率いてリスボンを発ち、カリブ海のサンーサルバドル(「聖なる救世主」の意)に到着した。スペインのセビリアにある「インド関係総文書館」に保存されている『東方見聞録』の一巻に、コロンブスの手になる三六六ヵ所もの欄外の書き込みがあり、そこには「常に疲れを知らぬ執着心」、つまり「黄金、銀、真珠、香辛料に対する執着心」が浮き彫りになっているという。クリストファー、つまり「キリスト教を伝える者」であるコロンブスの名前からすれば、かれは未知の世界への伝道者たる心算だったのかもしれない。
この『東方見聞録』について、大英図書館の中国部門の主事であるフランジスーツドは主張する。『マルコーポーロは本当に中国へ行ったのか』のむかで、ジパングをはじめとしたアジアをヨーロッパに初めて紹介したマルコーポーロのアジア探訪が事実であったかどうか疑わしい、と。訪問したはずのアジアにマルコの足跡がほとんどないという事実がその根拠だが、イタリアの熱狂的マルコ支持者から猛烈な反発をくらった。『東方見聞録』の真偽のほどを判断する能力はないが、その物語は、当時のヨーロッパを覆うアジア熱がいかに熱狂的なものであったのかを教えてくれる。
中世ヨーロッパにおいて、コロンブスをはじめ、アジアをめざして西方(東方ではない)に向かうヨーロッパの人びとの野心には、並々ならぬものがあった。アメリカ先住民が長い間、なぜ「インディアン」と誤って呼ばれ続けたのか。そこにも、歴史的誤解をそのままにしてきた、ヨーロッパのアジア熱の高揚を推察することができる。
一五世紀末の、コロンブスによる「西インド」諸島到着と、ヴァスコーダーガマの喜望峰経由でのインド到達によって、ヨーロッパを仲介にアジアとアメリカが結ばれ、一六世紀には文字通りの世界市場が出現した。世界経済の始まりを二一世紀だとする論者はここに着目する。世界システムの独自の運動に資本主義の始まりを求めたイマニュエルーウォーフーステインも、中世における地中海世界の衰亡を綴ったフェルナンーブローデルも、いずれもニ一世紀論に熱心だった。
2015年8月1日土曜日
三つの構造変化
この当時、自動車などの耐久消費財の需要も増加した。これも一時的な増加にすぎなかったのだが、需要増加を構造的なものと見誤った企業は、生産設備の積極的な拡張を行なった。それが企業収益を長期間にわたって圧迫したのである。これについての詳細は、つぎの文献を参照。野口悠紀雄『バブルの経済学』日本経済新聞社。
それでは、日本経済は、現在いかなる構造変化に直面しているのか?ここでは、とくに重要なものとして、アジア諸国の工業化、新しいネットワーク技術の展開、人口高齢化の三点を指摘したい。構造変化の第一にあげられるのは、一九八〇年代後半以降のアジア諸国に起こった急速な工業化である。短期的にみれば、ここ数年間、アジア諸国は金融危機や通貨危機によって混乱した。ただし、これはどちらかといえば、一時的な現象である。長期的にみれば、アジア諸国は、今後も成長を続けると考えられる。つまり、これは、構造的な変化だ。
アジア地域は、二一世紀に向かう成長センターといわれている。今後の世界経済の焦点がここにあることは、疑いないだろう。めざましいNIESの経済発展 アジア諸国のなかには、NIES、アセアン、中国という、発展段階の異なる三つのグループが含まれる。「NIES」には、韓国、台湾、シンガポール、香港の四つの地域が含まれる。これらの地域は、以前から工業地域ではあったが、その中心は、労働集約的な軽工業だった。
しかし、一九八〇年代に、NIESはハイテク産業や重化学工業に進出した。現在では、この分野で世界をリードする先進的な工業国となっている。たとえば台湾は、世界一のパソコンの生産国だ。NIESの経済発展がいかに著しいかは、さまざまなデータでうかがうことができる。ここでは、つぎの二つのデータをみよう。表は、一人当たり国民所得を比較したものである。これは、国の豊かさや発展段階を示すものとして、しばしば用いられる指標だ。
一九八〇年代までは、シンガポールや香港は、英国よりもかなり低い水準にあった。われわれがもっているイメージは、これに近い。ところが、一九九三年に、シンガポールと香港の一人当たり国民所得は、英国を抜いた。その後も英国との差ぱ開いている。つまり、これは一時的な変化ではなく、構造的な変化である。現在、シンガポールは、一人当たり国民所得で米国や日本をも抜いており、世界で最も豊かな国の一つとなっている。
それでは、日本経済は、現在いかなる構造変化に直面しているのか?ここでは、とくに重要なものとして、アジア諸国の工業化、新しいネットワーク技術の展開、人口高齢化の三点を指摘したい。構造変化の第一にあげられるのは、一九八〇年代後半以降のアジア諸国に起こった急速な工業化である。短期的にみれば、ここ数年間、アジア諸国は金融危機や通貨危機によって混乱した。ただし、これはどちらかといえば、一時的な現象である。長期的にみれば、アジア諸国は、今後も成長を続けると考えられる。つまり、これは、構造的な変化だ。
アジア地域は、二一世紀に向かう成長センターといわれている。今後の世界経済の焦点がここにあることは、疑いないだろう。めざましいNIESの経済発展 アジア諸国のなかには、NIES、アセアン、中国という、発展段階の異なる三つのグループが含まれる。「NIES」には、韓国、台湾、シンガポール、香港の四つの地域が含まれる。これらの地域は、以前から工業地域ではあったが、その中心は、労働集約的な軽工業だった。
しかし、一九八〇年代に、NIESはハイテク産業や重化学工業に進出した。現在では、この分野で世界をリードする先進的な工業国となっている。たとえば台湾は、世界一のパソコンの生産国だ。NIESの経済発展がいかに著しいかは、さまざまなデータでうかがうことができる。ここでは、つぎの二つのデータをみよう。表は、一人当たり国民所得を比較したものである。これは、国の豊かさや発展段階を示すものとして、しばしば用いられる指標だ。
一九八〇年代までは、シンガポールや香港は、英国よりもかなり低い水準にあった。われわれがもっているイメージは、これに近い。ところが、一九九三年に、シンガポールと香港の一人当たり国民所得は、英国を抜いた。その後も英国との差ぱ開いている。つまり、これは一時的な変化ではなく、構造的な変化である。現在、シンガポールは、一人当たり国民所得で米国や日本をも抜いており、世界で最も豊かな国の一つとなっている。
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