民間資産の実質減価は、バブル崩壊後の日本経済にとって大きなデフレ要因になったわけだが、意外にも見逃されてきたのが、こうした為替レートの変動が景気対策に対して及ぼす影響である。
政府は円高の進行に対応して、以下のような大規模な景気対策を次々と講じてきた。
・92年、総合経済対策 10.7兆円
・93年、新総合経済対策 13.2兆円
緊急経済対策 6兆円
・94年、総合経済対策 18.3兆円
・95年、緊急円高経済対策 4.6兆円
経済対策 14.2兆円
これらは、合計すると65兆円、GDPの1割以上にも達する。しかし、こうした相次ぐ大規模な対策にもかかわら1930年当時、イギリスはなお、ポンド建て債券による世界最大の債権国であった。したがって、強いポンドはこの対外資産の価値やそれによる利子配当の価値を維持する点ではプラスであった。
しかしケインズはそうしたプラス面よりも、ポンド安による景気浮揚効果、とくに輸出産業の底上げを重視したのである。今日の日本の場合はいっそう条件が悪い。円建てによる対外投資チャネルがいまだに確立されずにいるため、「強い円」は、生産コストの増大により、フローとしての生産活動に打撃を与えるばかりでなく、ストックを通しても、対外純資産の為替差損という形で景気の停滞、デフレ効果をもたらす構造になっている。
円高下における大規模な財政出動による景気刺激策は、いわゆる「ケインズ政策」が、ワン・パターン化した景気対策として定着し、おそらくはケインズ自身も想定しなかったような状況で続けられたものと見ることができる。
平成不況に対する緊急対策が相継いだ時期を通して、日本の世論の主流を占めていたのは「少なすぎ、また遅すぎる」というアメリカ側の声に呼応するような主張であった。クリントン政権は、登場後、95年夏にいたるまで円高を進行させたが、一方で、そのために当然予想される日本の景気落込みには「懸念」を表明し、日本は日本で「万全の景気対策」についてサミットなどの場で説明し「理解」を求めてきた。対米公約に沿って景気対策を執行すれば、財政の破綻が迫ってくる。財政の破綻が迫れば、ムーディーズその他の米系格付機関による日本国債の格下げが気になってくる。
また、ブッシュ政権末期の日米構造協議は、日本に長期の公共投資拡大を約束させたが、これが公共工事に関連する政・官・業の利益集団のパワーを強化させることになった。こうした利益集団は円高による打撃からはもっとも遠く、逆に、円高の機を捉えて自らの利益とする政策、公共投資を誘導することには長けている。円の過大評価は、次章で見るように、日本経済の明日がかかるハイテク関連産業の海外展開を過度に進め、これら産業部門の空洞化を招く一方、日本の「土建国家化」を促す。これは産業構造の退行現象といえるだろう。
ケインズが説くような、通貨の過大評価を是正する方途が、はたして日本にはなかったのだろうか。私たちは、アメリカの政策当局者のわずかな口先介入が、しばしば潜在的条件からは説明できないほど大きな為替の変動を招き、逆に日銀の積極的な介入が焼け石に水といった状況をくり返し見せつけられている。これらの経験に照らしても、日本が景気対策の王道として、円相場の適正水準を自ら保持することは困難であるように思われる。
しかし、じつは有効な円高是正策がないわけではなかった。90年から95年にかけて、日米経済の再逆転の過程を追うなかで、アメリカが一貫して追求してきた円高・ドル安政策のインパクトを分析した。ここでも結論は次のように要約される。
日本政府が、早い時期に円建て投資環境の整備を押し進めていればどうであったか。円建ての対米資産が多ければ、いたずらに自国通貨ドル・ベースでの債務を膨らませる円高政策を、アメリカといえども、むやみに押し進めることはできなかったのである。
だが、日本の政策当局者は、すでに、70年代から80年代前半にかけての、かけがえのない好機を逸してしまった。95年以降、アメリカ経済の「一人勝ち」が喧伝されるなかで、日本経済には、マネー敗戦の荒涼とした戦後の光景が定着することになる。
2015年2月2日月曜日
2015年1月5日月曜日
何をもって国際化と呼ぶのか
自分の実績の底の浅さを周囲に知られたくない。修羅場と言われる外国人相手のビジネスで、狭い世界だから通用している自分の実績の底の浅さを周囲の人間に知られたくないというタイプの人もいる。そういう人がリーダーの地位にあると、その部下や、顧客や仕入先など利害関係者は必ず不幸になる。少子高齢化で国力が衰えつつある日本だけを舞台にビジネスをやろうとする人、あるいは日本にはまだまだ潜在的市場と成長力があると日本にこだわる人には、他人に言えない本音や弱みがあるのかもしれない。
ビジネスとは感情よりも論理で行なうものである。もちろん情の要素は大いにあり、私もビジネススクールなどで講義をする際には情の大切さを強調している。しかし、全てが情で押し 切れるほどビジネスの世界は甘くない。それが十分わかっているはずのリーダーが、極端に日本にこだわるというのは、論理を超えた何かがあると考えたほうがよさそうだ。何らかの劣等感であれ、自己不信であれ、リーダーの弱さに振り回されては、周囲は迷惑する。七十代以上の経営者だけでなく、中年の幹部の中にも、未だに「毛唐(外国人の古い蔑称)は嫌いだ」と公言する人がいる。リーダーに非論理的な、外資回避、外国人拒否の姿勢が見えたら、補佐役や周囲は、リーダーの頑迷さに代わる新たな考え方を用意する必要があるだろう。
本当ならば、そうしたリーダーは別の人に代えるのが一番よいが、それが難しい場合、彼なしで外資や外国人とのビジネスを始める道を模索するのがよいだろう。組織の堅さは脆さにつながるものである。こうした頑ななリーダーが長くその地位を保持している組織が、今後も繁栄を続けるのは難しいだろう。ビジネスの世界では、それがトップの嗜好であっても好き嫌いで意思決定が左右されるのは健全な状態ではない。好きな人や会社とばかり仕事ができればそれに越したことはないが、実際には嫌いな人間やいけ好かない企業ともビジネスを行なわなければならない。外資や外国人と、彼らがただ日本にルーツがない、日本人ではないという理由で取引を拒むのは、経済的な損失のみならず、精神的にも損失であると私は考える。自らの成長の機会を奪うことにつながると思うからだ。
さて、ここまで国際化という言葉をきちんと定義しないで使ってきたが、国際化という概念について少し言及したい。国際化の反対語として「国内化」とか「日本化」といった言葉が一般的に使われていない状況で、「国際化とは何ぞや」という問いに真正面から答えるのはなかなか難しい。国際化の現象面としては、企業内の外国人社員数や比率とか、海外拠点数とか、海外売上などが挙げられるだろう。しかし、これらは外側から見た国際化の指標にはなっても、企業の内部の国際化のものさしとしては不十分である。
売上高、社員数ともに海外が国内を凌駕しているある日本のエレクトロニクス企業においても、社外役員を除いて外国人の役員はいない。国際企業と言われる割には、部長クラスまで下がってみても、本社はおろか海外拠点ですら外国人の管理者は驚くほど少ない。この企業では社員の国際化が急務の一つとされているが、そのための指針、体制、研修といったところにまで十分な配慮がなされていないように見える。国際化の優等生と言われるソニーやトヨタにおいても、一介の外国人社員が、本社で役員にまでのぼりつめるためのキャリアパスははなはだ不透明なままなのである。
ビジネスとは感情よりも論理で行なうものである。もちろん情の要素は大いにあり、私もビジネススクールなどで講義をする際には情の大切さを強調している。しかし、全てが情で押し 切れるほどビジネスの世界は甘くない。それが十分わかっているはずのリーダーが、極端に日本にこだわるというのは、論理を超えた何かがあると考えたほうがよさそうだ。何らかの劣等感であれ、自己不信であれ、リーダーの弱さに振り回されては、周囲は迷惑する。七十代以上の経営者だけでなく、中年の幹部の中にも、未だに「毛唐(外国人の古い蔑称)は嫌いだ」と公言する人がいる。リーダーに非論理的な、外資回避、外国人拒否の姿勢が見えたら、補佐役や周囲は、リーダーの頑迷さに代わる新たな考え方を用意する必要があるだろう。
本当ならば、そうしたリーダーは別の人に代えるのが一番よいが、それが難しい場合、彼なしで外資や外国人とのビジネスを始める道を模索するのがよいだろう。組織の堅さは脆さにつながるものである。こうした頑ななリーダーが長くその地位を保持している組織が、今後も繁栄を続けるのは難しいだろう。ビジネスの世界では、それがトップの嗜好であっても好き嫌いで意思決定が左右されるのは健全な状態ではない。好きな人や会社とばかり仕事ができればそれに越したことはないが、実際には嫌いな人間やいけ好かない企業ともビジネスを行なわなければならない。外資や外国人と、彼らがただ日本にルーツがない、日本人ではないという理由で取引を拒むのは、経済的な損失のみならず、精神的にも損失であると私は考える。自らの成長の機会を奪うことにつながると思うからだ。
さて、ここまで国際化という言葉をきちんと定義しないで使ってきたが、国際化という概念について少し言及したい。国際化の反対語として「国内化」とか「日本化」といった言葉が一般的に使われていない状況で、「国際化とは何ぞや」という問いに真正面から答えるのはなかなか難しい。国際化の現象面としては、企業内の外国人社員数や比率とか、海外拠点数とか、海外売上などが挙げられるだろう。しかし、これらは外側から見た国際化の指標にはなっても、企業の内部の国際化のものさしとしては不十分である。
売上高、社員数ともに海外が国内を凌駕しているある日本のエレクトロニクス企業においても、社外役員を除いて外国人の役員はいない。国際企業と言われる割には、部長クラスまで下がってみても、本社はおろか海外拠点ですら外国人の管理者は驚くほど少ない。この企業では社員の国際化が急務の一つとされているが、そのための指針、体制、研修といったところにまで十分な配慮がなされていないように見える。国際化の優等生と言われるソニーやトヨタにおいても、一介の外国人社員が、本社で役員にまでのぼりつめるためのキャリアパスははなはだ不透明なままなのである。
2014年12月1日月曜日
模擬陪審の事件内容
ある学者の研究でも、日系企業は米国の陪審裁判での勝率が米国企業よりも高いことが実証されており(丸田隆著『アメリカ民事陪審制度』弘文堂)、そういうことも財界の方々には冷静に理解してほしいと思います。
ただ、もし本当に企業側のやったことが悪質なものだとしたら、その時には厳しい評決になる可能性は否定できません。模擬陪審の事件は微妙な事案だったので、病院に有利とも思える評決になってしまったわけですが、企業が本当に悪かったら、それでは済まないでしょう。
それは企業社会としても、こんな企業は同業者として許せないとして、悪徳企業にお灸をすえることを意味します。つまり、企業倫理向上の観点からしても、陪審導入は全体としてプラスでこそあれ、決してマイナスではないと考えられます。陪審制を恐れなければいけない企業とは、どちらかといえば企業倫理に無神経な、ろくでもない企業だくらいの見方をして、ほぼ間違いないのではないでしょうか。
さらに蛇足を加えるなら、自分の会社の従業員が陪審員に選ばれたとして、それが刑事裁判であれば、「会社のこととは関係ないが、ちょっと社会勉強のつもりで行かせるかな」くらいにしかなりません。それが民事陪審であれば、「わが社が将来何かのトラブルに巻き込まれた場合の参考になるかもしれないから、研修のつもりでしっかりとやってこい」くらいに言えるのではないでしょうか。
企業社会においても、将来、良識ある財界人が現れて、陪審制反対一辺倒から方向転換する時代がやってくるかもしれません。ひと昔前なら荒唐無稽とされた考えが、いつの間にか現実のものに、といった現象が最近起きていることからすると、こういう転換も全くあり得ないことではないと思います。
ただ、もし本当に企業側のやったことが悪質なものだとしたら、その時には厳しい評決になる可能性は否定できません。模擬陪審の事件は微妙な事案だったので、病院に有利とも思える評決になってしまったわけですが、企業が本当に悪かったら、それでは済まないでしょう。
それは企業社会としても、こんな企業は同業者として許せないとして、悪徳企業にお灸をすえることを意味します。つまり、企業倫理向上の観点からしても、陪審導入は全体としてプラスでこそあれ、決してマイナスではないと考えられます。陪審制を恐れなければいけない企業とは、どちらかといえば企業倫理に無神経な、ろくでもない企業だくらいの見方をして、ほぼ間違いないのではないでしょうか。
さらに蛇足を加えるなら、自分の会社の従業員が陪審員に選ばれたとして、それが刑事裁判であれば、「会社のこととは関係ないが、ちょっと社会勉強のつもりで行かせるかな」くらいにしかなりません。それが民事陪審であれば、「わが社が将来何かのトラブルに巻き込まれた場合の参考になるかもしれないから、研修のつもりでしっかりとやってこい」くらいに言えるのではないでしょうか。
企業社会においても、将来、良識ある財界人が現れて、陪審制反対一辺倒から方向転換する時代がやってくるかもしれません。ひと昔前なら荒唐無稽とされた考えが、いつの間にか現実のものに、といった現象が最近起きていることからすると、こういう転換も全くあり得ないことではないと思います。
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