債権国・日本が90年代に入って経験した不況は、戦後未曾有のものであった。この不況の原因は、じつは複雑である。金融機関の不良債権問題のみが声高に叫ばれたのは、その解決が急がれたという意味では正論であろうが、そればかりが強調されては不況の全体像を捉え損ねることにもなりかねない。不良債権問題それ自体が、プラザ合意後の対米協調金利政策の結果であることはこれまでに見てきたとおりだが、ここで強調しなければならないのは、アメリカの円高誘導策が平成不況に及ぼした直接的な影響についてである。
まず、これをモノ作り部門について見てみよう。バブル崩壊のもとでの円高の進行は、アメリカの好況のちょうど裏返しの影響を日本経済に与えたといえる。その中心的経路は、製造業との関連では次のように整理される。「円高→輸出減・輸入増→鉱工業生産の低下→労働生産性の停滞→単位労働コストの底上げ」さらに実効レートによる円高の程度がドル安のそれより大きかったことが、その影響をはるかに強烈なものとした。先にアメリカのドルについて見た為替の実効レートは、円の場合、95年には90年に対し約4割も上昇している。これは、主要貿易相手国としてアメリカの占める割合がきわめて高く、また、90年以降は、ドル安というより円の独歩高が続いたためであろう。
これらの指標のうち単位労働コストについて見てみよう。単位労働コストは、91~95年の間、自国通貨(円)ベースの上昇率(ベース・アップなどによる通常の上昇率)は6~7%でアメリカとあまり差がないのに、これを実効為替レートではじくと5年間の上昇はきわめて大幅である。このように単位労働コストが対外的には大幅に上昇したことが、「産業空洞化」を過度に進めるとともに、円高による「輸入価格の低下→デフレ圧力」との間で大きな矛盾となった。輸入価格の低下によるデフレ圧力がある一方で、海外の産業との価格競争力を左右する実効為替レートでの労働コストが上昇した。これでは製造業部門は立ち行かない。労働コストの安定がインフレの芽を摘むという好循環を呼んだアメリカの場合とは対照的である。
2015年6月1日月曜日
2015年5月1日金曜日
国債に吸い込まれるマネー
国富ファンドの台頭も意外なところで円の見直しにつながるかもしれない。安全を重視する外貨準備が債券運用中心なのに対し、収益を追求する国富ファンドは株式運用にも比重を置く。だから日本の株式時価総額が世界全体で一〇%以上を維持できれば、国富ファンドに占める円資産の比重は、円建て比率が三%強にとどまる外貨準備に比べて高くなる可能性がある。そのためにも、企業がグローバルな競争力を高めるとともに、主体的な通貨戦略を立てられるだけの総合的な国力の回復が欠かせない。長い目で見た日本の課題はハッキリしている。束アジアー中国-米国という経済交流が深まるなか、自らの比較優位を確保できる成長産業を発展させ、持続的な成長を果たすこと。欧州がECUという舞台でビジネスを競ったように、アジアという舞台で日本の金融が実力を発揮することだ。
日本の名目GDPが年換算で初めて四百兆円に乗せたのは一九八九年一-三月期。平成元年のことだ。五百兆円乗せは九六年一一三月期である。バブルが崩壊しても、七年かけて日本経済は百兆円拡大した勘定になる。実は、民間企業や家計がバブルの後遺症に悩むなか、この景気拡大を支えたのは、公共投資なのである。不良債権問題が金融危機となって翌九七年に火を噴き、日本経済は決定的に失速した。その後、小泉改革などを経ていったんは立ち直ったかにみえたが、○八年九月のリーマンーショックを機に釣瓶落としとなり、いまだに立ち直っていない。
直近の○九年度の名目GDPは四百七十六兆円だが、これは九一年度以来の低水準だ。日本経済は失われた十年どころか二十年のトンネルの只中に入ってしまったといってよい。企業と家計が傷つき内需が低迷したことが長期低迷だ。○三年以降の景気回復は外需に依存する度合いが高まった分、世界経済後退の波を受けやすくなったのだ。○九年九月に誕生した民主党政権は、「福祉経済」のスローガンを掲げる。外需ではなく、内需主導の経済を目。指すと意気込む。従来の予算の無駄を「仕分け」して、浮いたお金で子ども手当などを導入し、消費を盛り上げようという。この路線の最大のリスクは過去二十年にわたり底割れしそうになるたびに経済を支えてきた、財政の破綻である。
日本の名目GDPが年換算で初めて四百兆円に乗せたのは一九八九年一-三月期。平成元年のことだ。五百兆円乗せは九六年一一三月期である。バブルが崩壊しても、七年かけて日本経済は百兆円拡大した勘定になる。実は、民間企業や家計がバブルの後遺症に悩むなか、この景気拡大を支えたのは、公共投資なのである。不良債権問題が金融危機となって翌九七年に火を噴き、日本経済は決定的に失速した。その後、小泉改革などを経ていったんは立ち直ったかにみえたが、○八年九月のリーマンーショックを機に釣瓶落としとなり、いまだに立ち直っていない。
直近の○九年度の名目GDPは四百七十六兆円だが、これは九一年度以来の低水準だ。日本経済は失われた十年どころか二十年のトンネルの只中に入ってしまったといってよい。企業と家計が傷つき内需が低迷したことが長期低迷だ。○三年以降の景気回復は外需に依存する度合いが高まった分、世界経済後退の波を受けやすくなったのだ。○九年九月に誕生した民主党政権は、「福祉経済」のスローガンを掲げる。外需ではなく、内需主導の経済を目。指すと意気込む。従来の予算の無駄を「仕分け」して、浮いたお金で子ども手当などを導入し、消費を盛り上げようという。この路線の最大のリスクは過去二十年にわたり底割れしそうになるたびに経済を支えてきた、財政の破綻である。
2015年4月1日水曜日
東京の日本人脱北者
長白の宿でこんな話を聞いた。「先月、長白に隠れ住んでいた七人の北朝鮮女性が逮捕され、恵山に強制送還された。彼女たちは食事にありつくため売春を続けていたらしい。恵山では一日二食しかできないが、一食を確保するのも容易ではなくなっている」この宿ではソウルに住む初老の韓国人とも知り合った。彼は観光客ではなく、恵山出身の失郷民、いわゆる離散家族だ。韓国にいる恵山出身者で構成される恵山会の会長をしていると名乗るこの男性は、前年夏に恵山市に残る家族や親戚一五人を脱出させ、韓国に連れ帰ったという。今回は残る数人を脱出させるために来たというのだ。危険が伴うためこれ以上の話は聞かせてもらえなかったが、私か初めて接した具体的な脱北情報だった。
この取材から二年後の九九年暮れ、東京で日本人脱北者の宮崎俊輔氏から北朝鮮を脱出するときの状況を聞いていて、思わずはっとした。彼は九六年九月に恵山から脱出していたからだ。ちょうど私か恵山を訪ねていたときのことである。恵山の少し上流で川幅が狭くなる場所があるのだが、そこが彼の選んだ脱出ポイントだった。私か初めて鴨緑江を挟んで恵山を眺めていたとき、栄養失調で野垂れ死に寸前だった宮崎氏は、日本赤十字社の電話番号だけを頼りに脱出の時期を狙っていた。大量脱北の前触れともなる出来事だったのかもしれない。
今から二〇年前の一九八七年一月二〇日、北朝鮮の清津港を出航した一隻の漁船が福井県沖に漂着した。船に乗っていたのは金満鍛(当時四五歳)氏とその家族の一一人で、日本での取り調べ過程で「南の暖かい国」への亡命を求めていることがわかった。日朝関係への悪影響を憂慮した日本政府は彼らの日本への亡命を受け入れず、韓国政府との協議の末、一一人の身柄を海上保安庁のYS11型機で台湾に移送し、間接的に韓国への亡命を実現させた。地雷原となった軍事境界線を越え韓国に帰順意思を表明する北朝鮮軍人は多数いたが、民間人の亡命はこれが初めてだった。事件は韓国で大々的に報道され、金満鍼一家はたちまち英雄になった。
この取材から二年後の九九年暮れ、東京で日本人脱北者の宮崎俊輔氏から北朝鮮を脱出するときの状況を聞いていて、思わずはっとした。彼は九六年九月に恵山から脱出していたからだ。ちょうど私か恵山を訪ねていたときのことである。恵山の少し上流で川幅が狭くなる場所があるのだが、そこが彼の選んだ脱出ポイントだった。私か初めて鴨緑江を挟んで恵山を眺めていたとき、栄養失調で野垂れ死に寸前だった宮崎氏は、日本赤十字社の電話番号だけを頼りに脱出の時期を狙っていた。大量脱北の前触れともなる出来事だったのかもしれない。
今から二〇年前の一九八七年一月二〇日、北朝鮮の清津港を出航した一隻の漁船が福井県沖に漂着した。船に乗っていたのは金満鍛(当時四五歳)氏とその家族の一一人で、日本での取り調べ過程で「南の暖かい国」への亡命を求めていることがわかった。日朝関係への悪影響を憂慮した日本政府は彼らの日本への亡命を受け入れず、韓国政府との協議の末、一一人の身柄を海上保安庁のYS11型機で台湾に移送し、間接的に韓国への亡命を実現させた。地雷原となった軍事境界線を越え韓国に帰順意思を表明する北朝鮮軍人は多数いたが、民間人の亡命はこれが初めてだった。事件は韓国で大々的に報道され、金満鍼一家はたちまち英雄になった。
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