自分の実績の底の浅さを周囲に知られたくない。修羅場と言われる外国人相手のビジネスで、狭い世界だから通用している自分の実績の底の浅さを周囲の人間に知られたくないというタイプの人もいる。そういう人がリーダーの地位にあると、その部下や、顧客や仕入先など利害関係者は必ず不幸になる。少子高齢化で国力が衰えつつある日本だけを舞台にビジネスをやろうとする人、あるいは日本にはまだまだ潜在的市場と成長力があると日本にこだわる人には、他人に言えない本音や弱みがあるのかもしれない。
ビジネスとは感情よりも論理で行なうものである。もちろん情の要素は大いにあり、私もビジネススクールなどで講義をする際には情の大切さを強調している。しかし、全てが情で押し 切れるほどビジネスの世界は甘くない。それが十分わかっているはずのリーダーが、極端に日本にこだわるというのは、論理を超えた何かがあると考えたほうがよさそうだ。何らかの劣等感であれ、自己不信であれ、リーダーの弱さに振り回されては、周囲は迷惑する。七十代以上の経営者だけでなく、中年の幹部の中にも、未だに「毛唐(外国人の古い蔑称)は嫌いだ」と公言する人がいる。リーダーに非論理的な、外資回避、外国人拒否の姿勢が見えたら、補佐役や周囲は、リーダーの頑迷さに代わる新たな考え方を用意する必要があるだろう。
本当ならば、そうしたリーダーは別の人に代えるのが一番よいが、それが難しい場合、彼なしで外資や外国人とのビジネスを始める道を模索するのがよいだろう。組織の堅さは脆さにつながるものである。こうした頑ななリーダーが長くその地位を保持している組織が、今後も繁栄を続けるのは難しいだろう。ビジネスの世界では、それがトップの嗜好であっても好き嫌いで意思決定が左右されるのは健全な状態ではない。好きな人や会社とばかり仕事ができればそれに越したことはないが、実際には嫌いな人間やいけ好かない企業ともビジネスを行なわなければならない。外資や外国人と、彼らがただ日本にルーツがない、日本人ではないという理由で取引を拒むのは、経済的な損失のみならず、精神的にも損失であると私は考える。自らの成長の機会を奪うことにつながると思うからだ。
さて、ここまで国際化という言葉をきちんと定義しないで使ってきたが、国際化という概念について少し言及したい。国際化の反対語として「国内化」とか「日本化」といった言葉が一般的に使われていない状況で、「国際化とは何ぞや」という問いに真正面から答えるのはなかなか難しい。国際化の現象面としては、企業内の外国人社員数や比率とか、海外拠点数とか、海外売上などが挙げられるだろう。しかし、これらは外側から見た国際化の指標にはなっても、企業の内部の国際化のものさしとしては不十分である。
売上高、社員数ともに海外が国内を凌駕しているある日本のエレクトロニクス企業においても、社外役員を除いて外国人の役員はいない。国際企業と言われる割には、部長クラスまで下がってみても、本社はおろか海外拠点ですら外国人の管理者は驚くほど少ない。この企業では社員の国際化が急務の一つとされているが、そのための指針、体制、研修といったところにまで十分な配慮がなされていないように見える。国際化の優等生と言われるソニーやトヨタにおいても、一介の外国人社員が、本社で役員にまでのぼりつめるためのキャリアパスははなはだ不透明なままなのである。
2015年1月5日月曜日
2014年12月1日月曜日
模擬陪審の事件内容
ある学者の研究でも、日系企業は米国の陪審裁判での勝率が米国企業よりも高いことが実証されており(丸田隆著『アメリカ民事陪審制度』弘文堂)、そういうことも財界の方々には冷静に理解してほしいと思います。
ただ、もし本当に企業側のやったことが悪質なものだとしたら、その時には厳しい評決になる可能性は否定できません。模擬陪審の事件は微妙な事案だったので、病院に有利とも思える評決になってしまったわけですが、企業が本当に悪かったら、それでは済まないでしょう。
それは企業社会としても、こんな企業は同業者として許せないとして、悪徳企業にお灸をすえることを意味します。つまり、企業倫理向上の観点からしても、陪審導入は全体としてプラスでこそあれ、決してマイナスではないと考えられます。陪審制を恐れなければいけない企業とは、どちらかといえば企業倫理に無神経な、ろくでもない企業だくらいの見方をして、ほぼ間違いないのではないでしょうか。
さらに蛇足を加えるなら、自分の会社の従業員が陪審員に選ばれたとして、それが刑事裁判であれば、「会社のこととは関係ないが、ちょっと社会勉強のつもりで行かせるかな」くらいにしかなりません。それが民事陪審であれば、「わが社が将来何かのトラブルに巻き込まれた場合の参考になるかもしれないから、研修のつもりでしっかりとやってこい」くらいに言えるのではないでしょうか。
企業社会においても、将来、良識ある財界人が現れて、陪審制反対一辺倒から方向転換する時代がやってくるかもしれません。ひと昔前なら荒唐無稽とされた考えが、いつの間にか現実のものに、といった現象が最近起きていることからすると、こういう転換も全くあり得ないことではないと思います。
ただ、もし本当に企業側のやったことが悪質なものだとしたら、その時には厳しい評決になる可能性は否定できません。模擬陪審の事件は微妙な事案だったので、病院に有利とも思える評決になってしまったわけですが、企業が本当に悪かったら、それでは済まないでしょう。
それは企業社会としても、こんな企業は同業者として許せないとして、悪徳企業にお灸をすえることを意味します。つまり、企業倫理向上の観点からしても、陪審導入は全体としてプラスでこそあれ、決してマイナスではないと考えられます。陪審制を恐れなければいけない企業とは、どちらかといえば企業倫理に無神経な、ろくでもない企業だくらいの見方をして、ほぼ間違いないのではないでしょうか。
さらに蛇足を加えるなら、自分の会社の従業員が陪審員に選ばれたとして、それが刑事裁判であれば、「会社のこととは関係ないが、ちょっと社会勉強のつもりで行かせるかな」くらいにしかなりません。それが民事陪審であれば、「わが社が将来何かのトラブルに巻き込まれた場合の参考になるかもしれないから、研修のつもりでしっかりとやってこい」くらいに言えるのではないでしょうか。
企業社会においても、将来、良識ある財界人が現れて、陪審制反対一辺倒から方向転換する時代がやってくるかもしれません。ひと昔前なら荒唐無稽とされた考えが、いつの間にか現実のものに、といった現象が最近起きていることからすると、こういう転換も全くあり得ないことではないと思います。
2014年11月1日土曜日
軍事介入は新しい問題を発生させる場合が多い
平和的手段が、紛争解決に絶対的に有効であるとはいえない。起きてしまった紛争に対しては、軍事介入以上に無力である。現行憲法が唱える「戦争の放棄」は、決して「果報は寝て待て」の楽天主義ではない。
「話せばわかる」が通じない修羅場のむごたらしさを深く認識し、紛争防止のため、平時において粘り強く努力を続けていくことが求められる、地味な厳しい道である。
平和主義が「エコノミック・アニマル」の遁辞に堕す事のないよう、それなりの覚悟と行動がともなわねばならないのである。
「武力によらない平和」を追求する平和憲法は、国の内外で「一国平和主義」「美しいだけで無力な理想主義」と祁楡され続けている。が、世界各地で紛争が絶えない時代状況の中で、ますます光彩を放つようになってもいる。
軍事的手段の限界が世界各地で明らかになってくるのにともない、紛争予防に全力を傾ける「平和的手段」の実利が、次第に広く認められるようになりつつある。
「戦争の放棄」を単なるスローガンではなく、平和達成に向けての現実的手段として定着させていくために、日本が取り組まねばならない課題は、たくさんある。
それは何より日本の持つ世界有数の経済力を活かすことである。食糧、エネルギー、疾病、環境紛争の根にあるこれらの地球規模の諸問題を解決するため、日本は、自らの人、物、情報・知識を総動員しなければならない。それが、二十一世紀日本に課せられた、困難ではあるが誇るべき使命といえる。
「話せばわかる」が通じない修羅場のむごたらしさを深く認識し、紛争防止のため、平時において粘り強く努力を続けていくことが求められる、地味な厳しい道である。
平和主義が「エコノミック・アニマル」の遁辞に堕す事のないよう、それなりの覚悟と行動がともなわねばならないのである。
「武力によらない平和」を追求する平和憲法は、国の内外で「一国平和主義」「美しいだけで無力な理想主義」と祁楡され続けている。が、世界各地で紛争が絶えない時代状況の中で、ますます光彩を放つようになってもいる。
軍事的手段の限界が世界各地で明らかになってくるのにともない、紛争予防に全力を傾ける「平和的手段」の実利が、次第に広く認められるようになりつつある。
「戦争の放棄」を単なるスローガンではなく、平和達成に向けての現実的手段として定着させていくために、日本が取り組まねばならない課題は、たくさんある。
それは何より日本の持つ世界有数の経済力を活かすことである。食糧、エネルギー、疾病、環境紛争の根にあるこれらの地球規模の諸問題を解決するため、日本は、自らの人、物、情報・知識を総動員しなければならない。それが、二十一世紀日本に課せられた、困難ではあるが誇るべき使命といえる。
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